桃源郷への登竜門

アドラーは目的論という方向性で心について語っていきましたが、そんな「目的」すら因果律的には外界からの情報でセッティングされてしまっています。

そして意識は直近に得た情報によって大きく左右されてしまいます。

ある目的、目標を持ったところで元の木阿弥になってしまう大きな要因の一つは、環境の整備が整っていないという点にあります。

以前某会合で会った大学生に相談された「やりたいことが多すぎるのですがどうしたらいいですか?」という質問の回答である「全部やめましょう」というものは、そうした環境の整備のひとつでもあります(「重要さ」を捨てて現状のストレスを少しずつ取り外す)。

「目的」をブレさせるもの

目的論から話を進めるにしても、目的の設定においてそれをどんどんブレさせるものはたくさんあります。

消費を加速させようというような人々の意図、仲間を増やしたいという人々の意図など、それらが特に悪気がないものであっても人々の意図にいちいち反応していては、自分がどうありたいかすら見えなくなってしまうことがあります。

混乱を防ぐために最も効くのは「やめること」

そんな感じで混乱がある人達にとって、最も効くのが「やめること」です。

世の中では何かと提案がなされます。先程挙げた消費を促すものであったり、共同で活動してくれるメンバーを探していたりという感じで内容は様々ですが、それらは「現状に何かを追加する」という方向性ばかりで語られています。

その内容としては、強烈に自分を高めてくれるものというわけでもなく、かと言ってとりわけマイナスにもならず、どちらかというと「若干プラスに働きそう」くらいのものが多くあります。

しかしそのような中途半端なものを抱えれば抱えるほど、本質的なところを見落としてしまうことになりかねません。

「微妙なもの」や「やたらと意識の矛先を振り回してくるもの」をバッサリと切り落とす

そういうわけでまず第一歩としては、「微妙なもの」や「やたらと意識の矛先を振り回してくるもの」をバッサリと切り落とすことです。

「微妙なもの」には大して面白くないゲームを筆頭に、あまり感動も興奮もないような無料動画鑑賞に勤しむということも含まれています。もちろん微妙な交友関係も含まれています。微妙な人で構成された集まりへの参加なども対象となります。

「やたらと意識の矛先を振り回してくるもの」には、テレビを筆頭とした各種メディアやSNSはもちろんのこと、YouTubeなどのアプリケーションや通信アプリケーション、究極は携帯電話そのものも対象になります。

今、目的論的な「目的」が見えていないとしても、まずはそうしたものを切り捨ててみましょう。

暇から生じる原動力

すると「暇」がやってきます。しばらくその暇は苦しいかもしれませんが、その暇が大切です。暇ということは、何かを見つけようとする原動力になるからです。

その時に今まで慣れ親しんだような情報デバイスは、あえて使わないことです。

仮にテレビやゲームやパソコンやスマートフォンを使えないとなると自分はどのような行動を取るかというところを楽しんでみましょう。

新聞雑誌といった各種メディア、映画や漫画すらダメだとしたら、自分は何をするでしょうか?

「それくらいいいだろう」

と思っているものがどんどん人を盲目にし、時間を奪っていると仮定してみましょう。

そしてその上で、それらに常識を作られてしまっていると考えてみましょう。

テレビを叩き割った日のこと

ちなみに僕はサザエさんが嫌いです。

サザエさんという作品自体が云々というわけではありません。特に作品として嫌いというよりも、サザエさんが標準という空気感が「この雰囲気が普通なのだ」「こうした普通に合わせるように生きよう」という刷り込みを行っているような気がして、病中の頃にはなりますが、テレビのブラウン管をゴルフクラブで割ったことがあります。

一見人畜無害かのように見える作品すら、その立ち位置、活用のされ方によっては人の生き方を方向づけてしまうこともあるということです。

当時の僕は、サザエさんを見て

「こういう生活が普通で幸せなんだぞ。だからお前らは高望みするな。おとなしく大企業の言うことを聞いておけ」

という刷り込み洗脳のように感じた、ということになります。

さて、そのような感じは極端ですが、何もやることがなくなると、何かをやってみたくなるかもしれません。

テレビを捨て、カメラを買いに行った

僕はそのような感じでテレビを叩き割ってしばらくしてから、貯金を全て使い果たすつもりで全額引き出して、デジタルカメラを買いに行きました。

単純には「テレビを捨てて、カメラを買った」という感じになりますが、おそらくその奥には、「他人に見せられていた」というそれまでと決別するために「自分で見つけたものを大切にしていこう」というようなものがあったのでしょう。

その時はそのような認識は特にありませんでしたが、振り返ればそんな感じだったのだろうということを思います。

「見せられている」から「見る」に変わった

明らかに見る方向が「見せられている」から「見る」に変わったので、一種のコペルニクス的転回が起こったといっても過言ではありません。受動から能動へと変わったという感じです。

そのような感覚をつかめば、その後見える世界はいずれ大きく変わったものになっていくでしょう。

テレビを見ない生活

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