日々の体温と人々の記憶

パソコンやスマートフォン、タブレットの光にさらされると体温が下がるような気がします。実際の体温がどうなっているのかわかりませんが、気力とでもいいましょうか、生きる力、生命力が失われ、体温が下がっていくような感覚がしています。

それは視覚にだけ集中し、変な姿勢を続けていることも影響しているのかもしれません。

衣服と肌の間にこもった体温を感じる

そんな折に僕が小学生だった頃、つまりまだパソコンや携帯電話などが普及していなかった時代の音楽を聴いたり、映画を観たりすると、男性であれ、女性であれ体温の高さを感じることがあります。

それよりも昔の作品であればなおさら、衣服と肌の間にこもった人の体温をじわじわ感じたりします。

夏休み・地蔵盆のシーズンになると、どうしても小学生の頃が懐かしくなり、近所の材木屋のおじさんに工作用の木をもらいにいったり、地蔵盆で一日中近所の人と遊んだりというようなことを思い出してしまいます。

その頃は遊ぶことに夢中でした。すごい集中力で興味のあることに没頭していたという感じです。

その時期の自分は、確かに体温が高かったような感じがします。

意識の分散と記憶と集中

現代の社会環境に対する嘆きや非難のようなものではないのですが、やはり体温の低下を感じるので、少し前からこの間の旅の途中まで、「なぜだろう?」と考えてみました。

やはり、意識の分散と記憶と集中が関係しているような気がしました。

意識の分散による意志力の浪費

欧米の言葉になりますが、ウィルパワー・意志力という概念があります。人々が昔から感覚でわかっていたような概念なので、特に珍しい考えではありませんが、使いやすい言葉なので「意志力」という感じで使っていきます。

単純に体力のように「ウィルパワー=意志力」というものを仮定して、その意志力は起床後が最大で、一日に使用できる総量はある程度決まっているという感じの考え方です。

そして、意識が向いたり、「やろう」と意図したり、何かを選択したりするたびにその意志力が消費されていくという感じです。

部屋が散らかっていたりしても意志力が消費されていきます。歩くたびに物をかわしたり、「少し掃除しようかなぁ」と思ったり、物を探したりするのにも力が必要だからです。そういうわけで掃除をするとスッキリしますし、エネルギーの浪費も軽減されます。

「所有しないこと」が意志力の消費を防ぐ

その極地が「所有しないこと」です。その点は、ゲーセンとがまぐちで触れていました。置き引きによって財布を持たずに歩くことのスッキリさに気付かされたという経験でよくよく実感しています。

で、そんな中手元にスマートフォンなどがあるとやたらに意識が向いてしまい、慢性的に意志力が浪費されているような感じがあります。いくら電源を切ろうが、「もしかするとメールが届いているのではないか?」という無意識の気がかりはどこまでもついてきます。

そしてメールの内容を見てしまうと、すぐに返事をしないとしても返信内容を考えてしまったり、「返事をしなければならない」という気がかりがずっと残ってしまいます。

便利なのはいいですが、その分意志力は日常的に慢性的に奪われているのではないかという感じです。

気になった分だけ意志力が奪われている

今回の旅では、一応いざというときの地図の参照のため、iPhoneなどを持参していましたが、Wi-Fiが使えるところであってもあえて使用せずという感じで過ごしました。日常の仕事のメールなどはこちらで受信していますが、「体温を元に戻そう」ということで、期間中ずっと電源を切っていました。

それでも1日に3回位はガラケーの方に意識が向いたりしました。先日まで母が入院していたことなどの影響という感じですが、やはりいくら工夫をしても若干は意志力が奪われているという感じの結果になりました。

デジタルデバイスによる記憶の肩代わり

また、今年の始めに奈良に行った時のことですが、友人と話をしていると、「スマートフォンの写真を探すことに夢中」という感じで違和感を感じました。

僕に見せるために四六時中写真を探し、見つけては見せるだけという感じです。

携帯電話・PHSが普及しだした頃から、目の前に人がいるのに電話の方を見ているという人がどんどん増えていったので、何も今に始まった話ではないのかもしれません。

しかし、今回の違和感は「記憶のあり方」の方でした。

記憶というと「覚えること」という印象があり、記憶力というと覚える能力という印象がありますが、記憶力についてはどちらかというと正確には「覚えていることを統合し思い出す能力、記憶を引き出す能力」という感じになります。

思い出す作業を放棄し、記憶を全て機械に依存しているような雰囲気

ということで、この違和感は、結局「思い出す」という頭の作業を放棄し、全て機械に依存しているような雰囲気に対するものでした。

つまり、端的には覚える気など無く「写真を撮ること」で全てを済まそうとしているのではないかということです。

アイツこと自我の「究極の手抜き」なのではないかということです。

撮影することへの執著

それにはっきり気づいたのは、今回の旅で伊香保温泉の露天風呂に行ったときでした。

営業終了時間間際だったのであまりお客はいなかったのですが、僕と一組の親子と一人のおじさんがいました。

親子が着替えていて、僕はトイレに行っていました。

ということでおじさん以外は無人状態だったのですが、露天風呂を「カシャ」っと撮りだしたのです。僕がトイレから出た瞬間に音が聞こえたのでその方向を振り向いてみると、施設内を写真撮影していました。

もちろん風呂場なので写真撮影は禁止です。

マナーの悪さ以上に、写真を撮ることへの執著に違和感を覚えました。

「そんなに撮りたいか?」

ということです。

しかし、「なぜ、大の大人がルールやマナーを無視してまで写真を撮ったのか?」ということのほうが気になりました。

そこで、「おそらく既に記憶をデジタルデバイスに依存している状態なのではないか?」ということを思ったわけです。

人にどんな場所かを説明するのなら公式サイトか何かで示せば事足ります。

ということで、おそらくそんな事が目的なのではありません。

「この経験を記憶に刻もう」

ということを頭と体で行わずに、スマートフォンのカメラ機能で行っているというだけなのでしょう。

デジタル写真が記憶の肩代わりをする、そうするとおそらく、「記憶を引き出す力」はどんどん失われていきます。

より一層人々が愚化していくのではないかということを感じました。

思い出語り

そんなこんなで昔の人はどうしていたのだろう、ということを考えました。以前母や祖母に聞くと、カメラが高価だった時代は、旅行先の落ち葉を拾ってスクラップブックに貼り付けたり、押し花を作ったりということをしていたそうです。

そうして一つの物を頼りに、その時のことをイメージで思い出すということをしていたという感じなのでしょう。

人に思い出を語る時、五感のすべてをイメージで思い出して、それを言葉にして伝えていたという感じのはずです。

「思い出して語る」が「写真を探して見せる」に代わりつつある

そのイメージで思い出すという作業は「スマートフォン内の写真を探す」に代わり、人に話すにあたって言語化していた部分は「写真を見せる」に代わりつつあるということになるのでしょう。

少なくともフィルム代と現像代がかかっていた時代であれば、撮影対象も絞り込まれ、むやみに撮ることもなかったので、細かな記憶は思い出す作業が必要だったような気がします。

1枚の写真を頼りに、何十分も話し込むというような感じでした。

しかし、全てが手軽になった現代では、「写真を見せて、ひとことコメント」というソーシャルネットワーク並みのコミュニケーションにシフトしつつあります。

表現する能力

写真をたくさん撮ること自体はいいですが、それに「記憶の代わり」をさせることは、おそらく目の前の現象に対する感受性が低下していくと考えられますし、それを表現していく能力も養われなくなるのではないかと思います。

人が写り込んでいる記念撮影や仕事で使うというのならまだわかるのですが、観光地などで風景の写真をたくさん撮っている老若男女を見ると、「どうせ同じような写真は画像検索で出てくるのになぜ?」と思うこともあります。

おそらくその奥には「覚えるのが面倒くさい。機械にやらせよう」というものがあるのではないか、という感じです。

そして機械に意識を向けているということは、五感からの情報の感度は低くなります。

そうなると、深くは楽しむことができなくなり、結局低レベルのものを乱発していくしかなくなるのではないかということにもなります。目の前に集中しないからこそ、細切れの情報で埋め尽くさなければならなくなるという感じです。

僕たちが高校生くらいのときから、「寂しい」などといいながら実際に会ってみると一緒にいながらずっと携帯電話を触っているというタイプの人が出てきました。

もちろんその頃には、そんな人と会って「そんなに携帯が大事ならわざわざ俺を呼ぶなよ」という感じでキレて帰る人もいました。至極当然です。

素晴らしい出来事の記憶

しかしよくよく考えてみると、人生の中で特段に素晴らしい出来事は、基本的にその瞬間の写真がありません。

素晴らしい出来事はあくまでこの体で感じた記憶という形でしか残らないのです。

初めてロックスターの生演奏を聴いて「感染」した瞬間、プロポーズをした時、初めて手をつないだ瞬間、そんな瞬間をわざわざ「記念に撮ろう」という感じは、やたらと野暮ったく感じます。

記念写真は残るかもしれませんが、ロマンが消えます。

「この瞬間をしっかりと覚えておこう」

本気でそう思ったのならわざわざ撮ろうとなど思わないはずです。

意志力と記憶と体温

そんな感じで日常かなり意志力が奪われ、体温を奪われているような気がしています。

そして、記憶を写真に依存している人たちは概してコミュニケーション能力が低い傾向にあります。なぜなら記憶を機械に肩代わりさせているため、イメージを言語化する能力も、言語をイメージ化する能力も、そして感受性も低下しているからです。といっても、言語に限定されず各種表現の能力にも影響を与えているという感じになるでしょう。

そうした記憶形態をとっている人とコミュニケーションをとっても、「写真を見せられるだけ」といった感じで情報が浅く、心底楽しむことはできないのではないかと思っています。

このような事象に限らず、物理的には都合が良くても、結局意志力を含めた精神に良い影響を与えているかは別物です。

所有の概念があればあるほど気がかりが増えて余裕がなくなっていく

どうせ住むなら大きい家が良いという感じだったとしても、大きければ大きい分だけ掃除の手間もかかりますし、その分時間やお金が奪われていきます。そしてそれだけでなく「気がかりになる対象」が増えるため、意志力も奪われていくという感じです。

服をたくさん持っていて、たくさんの中から選べるというのはいいですが、その裏には選択のストレスがあり、選択の度に意志力は奪われていくのです。

頭の中に所有の概念があればあるほど、少しずつ「気がかり」が増え、余裕がなくなっていきます。

そして余裕が無くなればなくなるほど、体温は低下していきます。

日常スマートフォン等々を筆頭にあちらこちらから通知が来て、また、通知が来るかもしれないと構えていれば気は休まりませんし、意志力はどんどん消費されていきます。

体温を保つにあたって、どうやらブルーライトを筆頭に物理的な悪影響を改善すれば解決するという問題ではないようです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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