指導や監督のパラドクス

どのような職場であれ大体は部下や後輩に対する指導や監督が裏目に出る「指導や監督のパラドクス」が起こったりします。

これは業務をうまく進めていくための指導や監督が逆に業務の遂行に支障をきたしてしまうというような現象です。

その要因としては、それぞれプライドを保ちたい複数の上司の指導による混乱や、サボりや失敗を防ぐための指導と監督がやる気を削ぐ以上に「行動に制限をかける」というような構造が考えられます。

表面上は部下や後輩のスキルやモチベーションを高めるための業務を指導ということになっていますが、その実、下手をすれば成績を奪おうとするものだったり、自尊心の回復のために罵声を浴びせて気力を奪うだけになっているということもよくあります。

必要以上の指導や監督は、「許されること」が目的となり、結局物事が最低レベルで落ち着いてしまうということになりかねません。

しかしその一方で、思いやりを持ちすぎたり、あまりに野放しにしたりしておくと、部下や後輩による「軽視」が始まり、組織運営が崩壊するということにもなります。

という感じなので、そうした指導や監督のパラドクスの構造とその対応について触れていきます。

複数上司の指導による混乱

これは僕が勤め人の頃、とりわけ新入社員時代に経験したことですが、複数の上司に業務の指導を受けてしまうと、それぞれの上司でやり方が違うため混乱が生じてしまうということが起こったりします。

仕事の進め方には、決まりきっていることと、ある程度曖昧になっているものがあります。

事務処理仕事や何かの提出書類であれば、多少のテクニックのようなものはどこかにあったとしても、基本的には「項目を埋める」というくらいなので、その仕事のあり方にそれほど差はありません。

その人なりのやり方がある分野になると意見がばらばら

しかしながら、営業や企画等々微妙にその人なりのやり方があるような分野になると、結構曖昧で意見がばらばらになってきたりしまし。

いろいろな上司が良かれと思ってアドバイスをくれたりするのですが、AさんとBさんのやり方は全く違うという場合があったりします。

「自分に向いている方を選べ」的な感じで、強制ではないという雰囲気を出してはくれるのですが、そんな上司たちの無意識レベルでの争いに巻き込まれることになっていったりするので、混乱が生じて仕方がない状態になることがあります。

「プライドを保つ」という自尊心の補償目的

こうした複数の上司からの仕事の指導は、その上司の自尊心に関わるような部分を潜ませていたりします。

毎度のことながら自尊心という物自体は虚像であり、自作自演の自爆ということにはなるのですが、一応相手にも職業的プライドがあるので、自分のやり方が正しいということを「認めさせたい」という部分もありつつ、「自分でも確信したい」という部分もあったりします。

もちろん部下を成長させたい、業務を覚えてもらいたいという純粋な職業的な意図もあるものの、その内側に微妙に自尊心の補償目的という部分が含まれてくることがあるという感じです。

「どちらの言うことを聞くんだ?」という一種の脅し

そして、そうした上司たちが「仕事を教えてやる」的な感じで指導してくれるのは良いのですが、複数の上司にそれをやられると「どちらの言うことを聞くんだ?」という一種の脅しがやってきたりするわけです。

上司との相性、そのやり方との相性というものもありつつ「どちらを認めるのか」という謎の気遣いまでしなければならないという無駄さです。

「君のため」という嘘

そうした時、「君のためだ」といいつつその上司のプライドがかかっている場合があります。

しかしながら、もちろんそうした指導をいただくこと自体はいいのですが、その方式を選ばないと「怒りはしないがスネてくる」ということがよく起こったりします。

そして何かしら失敗した時に、「教えてやったのに、やらないからだ」ということで責めてきたりします。

別に面倒だと思ってやらなかったのではなく、その方と違う上司の方が「今回はこうやれ」と言ってそれに従ったまでなのですが、結局そうしたことで激怒まではいかなくても軽く怒ってきたりもするわけです。

せめて「今回はこうやれ」と言った方の上司が庇ってくれれば良いのですが、自分の方法の失敗なのでプライドのために、そういうふうに指導したことは、聞かれない限り自己申告したりしなかったりします。

かといって、「あの人に言われたから」などと言い訳しようものなら「言い訳するな」などと言ってくるのですからたまったものではありません。

ハズレ上司に当たった時の対策

ということで、こうした上司陣はたいていハズレ上司なのですが、ハズレなので、仕事上の効率の良さなども結構な確率で非効率だったりもします。

なので、オリジナルで効率の良い方法を見つけたり、他のうまくいっている上司に指導を仰いだりしてスキルを高めていかねばなりません。

しかしながらそうするとハズレ上司は、やはりハズレなのでより一層スネてきたりもします。

管理者に相談しハズレ上司の口出しを防ぐ

こうした時に一番良いのは、それら上司よりも上位にいる管理者に相談しつつ、自尊心補償目的のハズレ上司の口出しを防ぐという方法です。

まあその人達も組織の中にいる人達なので、ヒエラルキー的なものは意識していたりします。

なので混乱を防ぐ対策としては、そうした組織人マインドを利用して、複数上司からの指導をブロックするという感じになるでしょう。

サボりを防ぐための指導と監督

さて、だいたい指導や監督というものは、サボりを防ぐためになされているというのがその本質になります。

新入社員等々、まっさらな状態の時は「仕事を覚えてもらうため」という感じですが、その後は「サボりを防ぐため」だったりします。また、「うだつの上がらない人たちや低迷している人たち」を辞めさせるレベルで指導し「辞めるかモーレツに働くかどちらかにしろ」という選択を迫るような感じだったりします。

では、なぜやる気なくサボったりや仕事ぶりが低迷してしまうのでしょうか?

それは簡単でその先に何もないからです。

まあ表面的に見れば、給料がもらえるだろうとか、その先に出世があるだろうということになりますが、別に低い水準であるものの給料はもらえますし、しんどくなるなら出世などどうでもいいという感じで、それらにはそれほどの魅力がないという感じになります。

ここで言う「その先に何もない」というのは、「よし!」となるような何かがないというようなタイプのものです。

背景や全体像を伝えること

よく内発的動機とか外発的動機と言われるようなもので(内発的動機づけと外発的動機づけ)、「その先」を設定しようとしていますが、よくよく考えると結局その人にも多少の都合の良さはありながら、指導・監督側の都合の方がより濃厚という場合がよくあります。

本来の内発性とは、そうした「内発的動機づけと外発的動機づけ」のコントラスト以上にシビアな内発性です。結局内発的と表現されているものも自発的の範疇であり内発性ではなく、自発性を高めるといった格好になっています(内発性と自発性)。

サボってしまうという場合は、基本的にやる気の元となる「その先」や意義が見当たらないという感じになっているのでしょう。企業の内側にいる限りは、たいてい少なからず「生活のため」と言った要素が入り込むと思いますが、社会的意義のような業務の「背景や全体像」をある程度理解してもらい、多少なりと自発性が生まれるような意味づけがないと、いくら「サボることはけしからん」といっても本音ではやる気が無いのでどうしようもありません。

罵声的指導によって短期的には何とかなっても、中長期的には何ともならないという感じになるでしょう。

「許されること」が目的化する

さて、指導や監督がサボりを防ぐためというような目的となっていった場合、指導や監督をされる側としては、「許されること」が目的となっていきます。

企業内においては「謎の書類」に思えてしまうような、上司がそのまた上司に叱られないための言い訳書類がたくさん存在していたりします。

その文書なり何なりが、顧客や社会全体のために何か貢献するかと言うと首を傾げてしまわねばならないようなものばかりだったりします。

それは結局のところ、サボる人たちと同様に「その先」に何も見いだせず、「許されることが目的化している」というような構造になっています。

目的が業務遂行から叱られないことへと変化する

企業運営には、「どうしてもやらなければならないこと」、「避けることができないこと」というものがついて回ります。

まあそれらは一種の義務のようなものですが、大きな目的のために生じる義務であって、プロセスの一つと考えれば、それほど苦になったりもしません。

しかしながら「単なる義務」という感じの構造になっているものは、想像にたやすくやる気など出るわけがありません。

「面倒くさく、やりこなしてもその先に何もない」のであれば、誰が好き好んでそれをやるのかということになってしまいます。

そんな中、給与等々金銭的な動きがあると、そうも言っていられなくなります。それはそれで当然といえば当然です。

そんな感じで義務感満載になっていった時、目的が業務遂行から叱られないことへと変化していきます。

必要以上の指導や監督で潰される人たち

自発的な意志や内発的な意志がある中、「良かれと思ってもたらされる指導や監督」が義務感を加え続け、結果、必要以上の指導や監督で潰されてしまうということが起こったりします。

それは、プロディーサーやディレクターがついたアーティストでも起こることがあります。裏では資金的なお世話があるので微妙に跳ね返せず、プラスになるかと思えばただ制限となり、そうした人たちのご機嫌の方を気にしてしまうという感じになってしまうというやつです。

そうしたものも「必要以上の指導や監督で潰される人たち」になりますが、「指導したから」ということで成績を奪ったりする人もいますし、保身のための恐怖心からただ気力を奪うだけの人たちの犠牲となる人達もいます。

愛がないどころか成績すら奪う人たち

世の中には、自分のやり方を押し付け、同時に「指導をしてやったのだから成績の半分をよこせ」というようなことを平気で言う人たちもいます。

そう言えば僕が経験したことで言えば、一番最初に成約したお客さんや、一番最初に飛び込み訪問で契約してくれたお客さんの分の成績を半分奪われたりしました。

一応口実としては「手続きの不備なんかがあるとお客さんにも迷惑だろうから」という感じでしたが、それでも「営業自体には何も貢献していないのだから奪うなよ」と思いました。

もちろん今でも許していません。

情熱なのか保身のための恐怖心なのか

パワハラの境界線」で触れていましたが、恫喝とも取れるような指導であっても、その奥にあるものが部下への愛情や仕事への情熱であるのならば、特に問題にならない場合が結構あります。

恫喝や罵声といった類のものが愛のムチと解釈されるか否かは、それら愛情や情熱なのか、それとも「自分がその上司に怒られる。出世に響く」という保身のための恐怖心なのかというところが大きく関わっています。

管理者を変えるだけで離職率がグンと下がる

そう言えば知人の会社の話になりますが、そうした自尊心を獲得しよう系の管理者を変えただけで離職率がグンと下がったという事例があります。

ある程度のスキルを持った人材を手放すという事にはなりましたが、求人広告費が削減できるようになったようで、結果的にクビキリは大成功という感じのようでした。

こちらで枯れていたものがあちらでは活き活きと咲くとすれば

また、あるスタッフが別の店舗に移動してから活き活きと活躍しだしたという事例もありました。

こちらで枯れていたものがあちらでは活き活きと咲くとすれば、それはやはり環境が悪かったということになります。

そのスタッフ自身が「できない人」というわけではなく、環境が悪かったという感じです。そうなると、原因は概ね以前の店舗の管理者ということになります。

ポテンシャルはあったということになりますし、おそらく以前の管理者が、「自分のやり方、枠にははまらない」等々でそれを阻害していたのでしょう。

最適な配置を阻害する脳筋体育会系思想

まあはっきり言えば、先輩後輩年上年下バンザイな、脳筋体育会系思想が最適な配置を阻害することがほとんどであると思っています。

上司としてのハズレな人、管理者としてはダメな奴が、上位にいるのは年功序列の影響である面がほとんどだからです。

純粋な実力、管理能力、もっと言えば「年齢や勤続年数を理由としない尊敬」が無いと、上司としては失格のはずですが、そうした最適な役割の配置を阻害するのが、Mr.脳筋孔子が唱えた儒教的思想、そしてそれに影響を受けている脳筋体育会系の思想であると思っています。

それでも必要な指導や監督

指導や監督が義務感を生み出し、結果的に人の能力を制限してしまうという点について触れてみましたが、そうした指導や監督は悪要素しか無いというわけではありません。

まっさらな新入社員に対する指導以外にも指導や監督が必要になる要素はたくさんあります。

「自由が一番だ」という面もありますが、「自由であることはロクでも無い」という面もあります。

それでは指導や監督の逆説的悪影響とは真逆になるような、指導や監督の必要性の方に移りましょう。

思いやりが「軽視」を生み出す

何事もそうですが、思いやりや優しさというものは時に相手の「軽視」を生み出してしまうという面が潜んでいます。

普通返報性の原理的に考えると、相手に思いやりをもって接したとすれば、思いやりが返ってくるということでないとおかしくなります。

しかしながら、時に「いい人の子供が横暴」という不可解な構造があるように、思いやりをかけて優しく接するということは、相手に「私のほうが上なのだ」という邪念を作っていく事があるという逆説的な残念さを捉えておかねばなりません。

まあ極端に言うと、ねぎらいとして「君のおかげで助かっている」的なことを言ったとしましょう。

すると相手は、「私がいなければダメなのだ」と思い出し、「私がいないと成り立たないんでしょ?」とどんどん横暴になっていくという感じです。

軽視が始まるとサボりが自己正当化される

そのような感じで、相手を思いやりすぎると、端的には事業主側、上司などを「なめてくる」という感じになります。

そうして軽視が始まると「どうせ何にも言われないだろう」とサボりが始まり、「上位にいる自分がどうしてあの人の都合に合わせなければならないのか?」という自己正当化が進んでいったりします。

「相手の人格を慮り、自由を与えすぎる」ということは、相手に怠惰と慢心を作ってしまうということになりかねません。

というようなことになるので、指導や監督が必要になるという感じになります。

恐怖心から「褒められて伸びるタイプ」と自己申告

そう言えば最近では、「私、褒められて伸びるタイプなんで」と自己申告する人たちがたまにいるそうです。

まあストレス耐性がなく、急な指導にストレスを感じたくないという恐怖心なのでしょうが、「それがどうしたんですか?」の世界です。

「私が伸びないとすれば、褒めなかったあなたが悪いのよ」ということなのでしょうか。

「好きなことで生きていく」のならば自営業か起業

まあそのような感じで、近年イデオロギー的煽動により「好きなことで生きていく」という感じで思っている人も結構いるようです。

しかしながら、企業の内側に入ってくるということは、他人の土俵に入ってくるということです。ということで、「好きなことで生きていく」のならば自営業か起業するくらいしかありません。

「他人が積み上げてきた空間の中に入るのに、自己都合を持ってこられても無理ですよ」という部分があります。

もちろんその人達にも都合があるでしょうが、こちらにも都合があります。業務内容や指導・監督が自分の思いと合致しないのであれば「辞めて自営業等々で頑張ってください」という感じになります。

という感じで、自由を制限されたくないという感じでやってくる相手に合わせたりするとロクなことにはならないどころか、企業が成り立たなくなってしまいます。ということで、指導や監督が相手を制限してしまうという要素がありつつも、指導や監督が無いと相手に軽視され、わがままに振る舞われてしまい、サボりも正当化されてしまうという格好になっています。

ということなので、指導や監督は必ず必要になりますし、「どうぞご自由に」という精神を持ちつつ、すぐにクビにするなり何なりすれば良いのです。

突破口は制度に依存しない関係性

そんな感じで、指導や監督によって混乱を招いたり「実力が制限されてしまう」という構造もありつつ、そうしないと軽視が始まり、サボりが正当化されるという雁字搦めな構造があります。

それを組織としての制度でコントロールするというのが一般的なあり方であり、ヒエラルキー的意識がある程度「軽視」の方の暴走を食い止めているという面もあるでしょう。

しかし、そうして抑制されているのは良いですが、暴走を止めている分、成長も止めているという感じになっています。

あっちを取れば、こっちが成り立たないというような雁字搦めの状態を突破するという面に関しては、できれば内発的、せめて自発的な意図を持ってもらうということの他、「制度に依存しない関係性」を築くというのが一番でしょう。

制度上「どちらが上でどちらが下」という構造がもたらさるとしても、そうした構造に依存しているようでは、こうした指導や監督のパラドクスを突破することはできません。

表面的な言動のテクニックでは誤魔化せない信頼

勤め人の頃、上司に「部下とのコミュニケーションマニュアル」というような義務教育感満載の冊子を見せてもらったことがあります。

「君、何か仕事で悩みはないかね?」

「実は訪問先に言った時に話を切り出すタイミングで悩んでいました」

「そうか、私も昔は同じように悩んだものだ。そういう時はね…」

というような感じだったので共に爆笑していたのですが、そうした表面的な言動のテクニックでは心底の信頼を得ることはできません。

論理的な正当性の主張は体感領域には通じない

また、体育会系にありがちですが、実は論理が成り立っていないような「論理的な正当性の主張」によって、相手を屈服させれば言うことを聞くだろうという風潮があります。しかし、それら理屈は、体感領域には通じません。

行動を約束することはできても感情は約束できないからです。

表面的な行動はしてくれるかもしれませんが、その行動は「許されるための行動」になります。

指導・監督側の余裕と意志

職場にいて指導されたりすると「人に言っていないで自分でやれ」と言いたくなるようなときがあります。

「自分の仕事は指導や監督だ」と言っておきながら、その実、指導はしていても実務ができないという場合がたまにあります。

そうなると説得力がありません。

指導側の本人もやる気がなく、やりたくもないという状態であるのに人に強いるような形を取っても通じませんし、何かしら経済誌に書いてあったような格言をカッコつけて言ったところで通じるはずがないのは自明です。

つまり、指導・監督側に「やる気がない」というのが一番の問題という感じになります。

まして、自尊心の回復を目的としているような指導という名目の憂さ晴らしなど論外という感じになります。

目標到達時のエネルギー切れやスランプ

ただ、指導・監督側にある程度内発的、または自発的な意志があったとしても時にエネルギー切れやスランプが訪れることがあります。

たいていは、「目標到達時」になりますが、意図のエネルギーが切れ、やる気が無くなってしまうというやつです。

ということなので、それも踏まえて指導者側にならねばならないという感じになります。

相互理解としての「共感」とそれに溺れない互いの意志

「保身でしょ?」と言われてしまうような恐怖心発端の指導や恐怖心を煽って義務感から人を動かすような監督のあり方では、本質的な意味での企業の猛進ということは叶いません。

そんな感じで見抜かれているようでは、どんな言動を取っても逆効果です。

ということで重要なのは相互理解としての「共感」とそれに溺れない互いの意志という感じになるでしょう。

自然な尊重と適度な距離感

こうしたものを叶えるには、自然な尊重と適度な距離感が必要になると考えられます。

ヒエラルキーは制度としての文語的な関係性であり、体感ベースの意識には通用しないため、そうした文語領域を超えたレベルで尊重され、ある種の尊敬を獲得するしかありません。

ただ、「尊敬を欲する」という構造は無いことを前提とし渇望している状態となるため、欲しているようでは実質的にそれは叶わないという構造になっています。

そして、そうした中でも適度な距離感がないと「軽視」と「慢心」を生んでしまったりもします。

こうした一種の尊敬が相互理解としての「共感」に繋がり、深いところでの軋轢を避けることに一役買います。そして、適度な距離感が「それに溺れない互いの意志」を保ちます。

亭主元気で留守が良い

ということを考えると、指導や監督のあり方は、「亭主元気で留守が良い」というようなものとあまり変わりないという感じがしてしまいます。

こうした指導・監督によって潰れてしまうという構造や思いやりがすぎると軽視が始まり怠惰と慢心を生むという構造、そして、自然な尊重や適度な距離感が安定をもたらすという構造は、企業等々の組織の内側だけでなく、家庭などを含めた「人で構成される社会」の全てに通じるような構造になっています。

Category:company management & business 会社経営と商い

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ