情報が内部循環することによる疲弊

情報の一方的な垂れ流しというのも煽動される要因となるので問題がありますが、「見たいものを見る」という形でパーソナライズされた情報というものもまた、偏見を加速させ、同時に「情報が内部循環していくことによる疲弊」をもたらしていくものでもあります。

それは個人レベルでも疲弊をもたらしますが、そうした「人」で構成される社会全体も疲弊させていくものでもあります。

ある程度自分には適しているという感じで特段強いストレスはありませんが、同じような情報ばかりになるので「面白くない」という感じになっています。

新しい世界を発見するための情報のタネは、自分と合わない人たちを含むような集合の中に潜んでいたりします。

それは内部循環するような情報の渦の中にあるのではなく、そうした集合の外にありますが、そこに飛び出すには少しだけ思い切りが必要になります。

その思い切りすら奪ってしまう「情報の内部循環」について触れていきましょう。

パーソナライズされた情報

特に情報を扱うような空間においては、情報がパーソナライズされていったりしています。履歴や地域、年齢に応じるように最適と思われる情報、関連した情報を提示してくるという感じです。

関連動画の提示や検索結果におけるパーソナライズ調整がその最たる例でしょう。

それはそれで一応自分に合っているということなので、ストレスは少なく、確かに興味があるような情報であったりもするので良い側面がありますが、構造上過去の経歴から推測される最適化なので、新しいインスピレーションは起こりにくかったりします。

それとは別に、世の中全体の盛り上がりという尺度で新しい提案がなされたりもします。

ということは、過去の最適化としての提案か、世の中の盛り上がりという二つの尺度しか無いという感じになってしまいます。

それはそれでいいですが、進化するための情報にはなかなか出くわすことができません。

そして、それらは関連性があるため、ある情報の集合体の内側をぐるぐるぐるぐるするだけになっていきます。

それはある程度好みに合っていてストレスが少ないですが、新規性のある刺激もあまりなければ、「進化」をもたらさないため、どんどん「なんだかつまらない」という疲弊をもたらしていきます。

「芋づる式」という感じで、かつてから本の中で出てきた作品、参考文献を読んでいくという読書の方法がありますが、それと同じように情報は、芋づる式に類似する他の概念の領域に広がっていったりします。

それはそれでいいのですが、たまには古本屋でぱっと見つけたようなものに、全く異なるものに刺激を受けたいという時がやってきます。

しかしながら、そうするにも古本屋に出向くというような行動のエネルギーがいるので、微妙なぬるま湯の方が良いという感じで、いつもの情報の空間の方に戻ってしまったりします。

固有名詞への依存

また、新しい概念との出会いを阻害しているものは、固有名詞のへの依存という要素ではないでしょうか。

インターネット黎明期からしばらくの間は、基本的にディレクトリ系や個人サイトのリンク集において「リンクをたどる」ということが主たる閲覧の仕方でした。

個人的な経験を思い返してみると、たまたま対バンした相手のバンドサイトのリンク集に写真家(当時はアマチュア)のサイトのリンクがあったりして、足あと帳に書き込んだりしつつ、そこから交流が始まったりして新しい世界が広がったというようなことがありました。

一応友人・知人ということで関連はしていますが、サイトコンセプトとしては違う分野という感じです。

そうした面白さがあったりしたのですが、近年の基本的な利用は、既知概念・既知の固有名詞からの情報到達という感じになっています。

すなわち、固有名詞に依存していると言うか、既にありふれていている「語」を軸にしないと、そうした情報にたどり着かないという感じです。

かつてメディアで名を売った著名人が、ある程度概念が広がっている「固有名詞」を使って動画閲覧回数を稼ぐというようなものが良い例です。

つまり、「その人」も「動画のタイトル」も、既に出てきている概念が組み合わさっただけという感じです。

新規情報への到達のあり方が、そうした検索系になるということは、固有名詞を利用するという方向性が最適になるため、どうしても既知の概念から派生するという形になり、飛躍した情報へ到達ということは起こりにくいという感じになっていってしまいます。

既にある空間の内側を循環

そのように「ストレスがかかりにくい」とか、固有名詞に頼った情報というものばかりになると、情報が内部循環していきます。

既にある程度興味があるものを対象とし、見たいものだけを見るようになり、既知の固有名詞に従って、同一空間をぐるぐる回るような感じになります。

そうなると急で強烈なストレスは無いかもしれませんが、ジリ貧的に疲弊していくような気がしてなりません。

まったく新しい素晴らしい音楽であっても、結局固有名詞を用いた作品群、既知の概念の中に埋もれてしまいます。そして、そうはなるまいと、発見されることを意図して抽象性を失った具体的な語ばかりが使われるということになってしまいます。

「そういうのはなんだか面白くないなぁ」

ということを思っているのですが、そうした時は、様々なものが入り混じった空間にいくのが一番です。

既知の空間を抜け出すエネルギー

そうした既知の空間を抜け出すにしても、意図とエネルギーが要ります。その方向は、既に体験の中にあるのですが、微妙な活動がそれを阻害します。

パーソナライズされ、内部循環したようなぬるま湯の微妙な「ぬるま湯感」が動き出す意図のエネルギーを奪っています。

「1日位なら経験しても良い」

とか

「1時間位で終わるなら試しても良い」

というような感じで、長期的に生き方を変えてしまうようなものには出会えないというよりも、出会ってもその場で終わってしまうという感じになってしまいます。

そんな時は、騒ぐ「暇の焦燥」を受け入れてエネルギーを溜めてみることです。

「暇すぎる」ということを受け入れて、暇を満喫していると、衝動が溜まっていきます。

そうしてエネルギーが高まった段階で思いっきり行動してみると、また新しい世界が開けてくるでしょう。

過去の最適化と固有名詞依存による風刺の抑制

Category:IT &Internet パソコンとか通信とか

「情報が内部循環することによる疲弊」への2件のフィードバック

  1. bossu

    こんばんは。
    いいお天気が続いているのに、コロナに気を取られております。
    しかし、パンジーやビオラの花柄摘みは雨上がりの晴れた日にするようにしています。
    なんだかな、と言いたいです。

    以前好きな音楽いつ聴きますか
    質問したものです。

    かいがらむし的なヤツが薔薇にいっぱいなので、困っています(´・_・`)

    お庭の調子はいかがでしょうか?

    1. どうもお久しぶりです。
      ちょうど梅花が終わり、桃がぷっくりした蕾を付けてきています。

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