意識的操作を超えたもの

自分が外の世界に反応するのではなく、外の世界が自分に反応する、ということは、認知バイアス等々を用いてある程度論理で説明しようと思えば説明できますが、それだけで捉えられるものではありませんし、あまりそうした事を言うと「表層的な意識とは裏腹なのはなぜだ!」ということになりかねません。

まあ、目覚めが最悪ならば、その最悪具合に応じてその日一日は「不快なものに目が行く」ということになってしまう、都言う程度ならばなんとなく納得がいきますが、そんな最悪の目覚め自体を望んでなどいないというところから考えれば、外の世界が自分に反応するということがおかしなことに思えてしまいます。

こうした時に自分というと、この思考をしている自我のことを思ってしまいそうになりますが、あくまでそれは視点であり、「解釈の窓口」といった程度です。

「親の背中を見て育つ」と言われるように、意識的に何か教育を行おうとしても届かず、ゴロゴロしながら漫画を読むという癖のような無意識のところばかりが受け継がれていくように、いろいろな意図は無意識レベルで形成されています。

そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。

そういえば、弟は僕と自転車の乗り方が全く同じのようで、僕が自転車に乗っていると弟と間違えた弟の友人が後ろから呼びかけてきたということもありましたし、その逆も何度かあったようです。

もちろん好き嫌いの影響もあるので一概には言えませんが、「一度にたくさんの料理が出てきた時に手を付ける順番」や水を飲むタイミングなども結構似通ったりしています。

と、これは癖や仕草の範疇にあるようなことですが、望むものや実際の選択といった意志決定においても、かなり影響を与えているはずです。

そしてこれは家族等々身近な人だけでなく、学校や職場等々における「現役で周りにいる人」や「歴代の周りにいた人」などの影響もあるということになります。

まあ遺伝子レベルを含めてそうした情報の集合体が自我ということになりますが、表面的な意識だけでなく、この意識が気づかない部分にある記憶等々も含めていわるる「自分」ということになります。

そうした自分がこだわりを持つものは、全て意識的なものか無意識的なものかを問わず記憶で作られています。

と、若干脱線しましたが、そんな無意識の状態が同調によって周りに影響を与えるということがあります。というよりそんなことだらけです。

なので、何故だかはわからないものの、物事がうまく進むということが起こったりします。その逆も然りです。

ここでやってしまいがちなのが、物事がうまくいくようにその法則性を掴みたいというようなことです。

しかしそうすると、法則を掴まないと危険だという無意識の緊張や危惧の状態が生まれます。なので、うまくいきません。

危惧の状態がダメだと思って操作しようとしてもまた、うまくいきません。操作しようとすること自体が危惧を発端としているからです。

と、論理の迷路のような感じになってしまいましたが、何かにつけて「これでいいのだ」でいいのだということです。

Category:笑う月

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