情報化社会における「情報の遮断」と「視点の教育」

情報化社会などと言われて久しいですが、例えば未成年の精神の発達において教育上重要なのは、情報の遮断ではなく視点の教育であると思っています。

これは、ルソーがエミールで説く「『徳や真理を教えること』ではなく『心を悪徳から、精神を誤謬から守ること』」の重要性に近いような感じです。

昔から「教育に悪い」ということで番組やマンガにクレームがついたりします。しかし、重要なのは、見せないということではなく、どう解釈するか、その視点をたくさん与えることであると思っています。

ルソー風の表現で言う「徳や真理を教えること」に根ざした方針であれば、あるものを与え、あるものを遮断するという方針になってしまいます。それはカルトにおける教育という名の洗脳に近いような感じになってしまいます。

大人等々に都合の良いような情報ばかり与え、都合の悪い情報は遮断するというような感じになりますが、そうしていても結局現代では様々な情報への到達は容易なのでいずれバレてしまいます。そしてカリギュラ効果的にそちらに夢中になる可能性の方が高まりますし、反抗期的な時期であれば思春期の高いエネルギーがあるのでさらにそちらに向かう可能性が高まります。

「若いうちから植え込んでおく」ということを意図してか近年では、大きな組織が教育のような装いで未成年向けに情報を発信したりしています。

感情に訴えかけたり科学的な正しさを示しながら都合の悪い部分を隠す情報

感情に訴えかけたり、科学的な正しさを示しつつも都合の悪い部分を隠したりという感じで、乾いたスポンジの如くぐんぐん吸収する素直な時期に歪んだ解釈のみを埋め込まれてしまうというリスクでいっぱいになっています。

例えばですが、裏には様々な意図がありそうなキャッシュレスの推進のために未成年向け情報として配信されたものとして「ウイルス感染を恐れた人が燃やしたお札」などと胡散臭い画像を掲載し、情動的に現金を避けるように仕向けていたりする場合があります。またその他、タレントまがいの学者に「人が触った現金なんて汚くないですか?」などと言わせてみたり(むしろそういう人を選んでいるだけかもしれませんが)と、煽動しているのがミエミエの情報がたくさんあります(テレビを見ない生活)。

そうした情報のあり方は今後もどんどん出てくるはずですし、いちいち選んでもいられません。学校から行く施設が「間違いではないが、一部の情報を与えず、自分たちの都合の良いような解釈を与えるように設計した学習」を組み込んでいる可能性も十分にあります。

複合的な視点、俯瞰して見る視点を持てるように

ということなので、大切なのは情報を遮断するというような方法・方針ではなく、何を見ても複合的な視点、俯瞰して見る視点を持てるように教育することであると思っています。

ひとまずは相対化しても良いですし、それで都合がいいのは誰かということを考えることも有効であると思います。

なので、「燃やされたお札」を見たとすれば、「こうやって君たちを現金から遠ざけようとする大人もいるよ」と、そのやり方自体の意図を教育するというのも良いでしょう。

部分的に切り取って極端に言えば正しいということであっても、全体から見るとそれほど大したことではないし、他の部分を切り取って極端に考えた場合もそれと同等、もしくはそれ以上に正当性がある、というような理の構造を示すというような感じです。

そうした別の視点を与える教育が、ルソー風の「心を悪徳から、精神を誤謬から守ること」につながると思っています。

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