家は頗る富みさかえて有りけるが

必要以上に与えることは、相手の自立や自分自身で獲得する自信、そしてそこから生ずる安心を奪うことになるのではないか、と思うことがよくあります。

実質的にはありがたいような援助であっても、そうした援助自体が自立の機会や意図を奪うことになり、結果、「自分一人でできた」という喜びや自信を奪ってしまうことになるというような感じです。

いくら所有物などで気を紛らわせようとも、本質的に自分には力がないという部分は紛らすことができません。いくら強がろうとも、それを支えるものが無く、自分で自分を騙すことはできないのだから致し方ありません。

家業を継いだものの末路

そういえばある時、うちの父が同級生とスーパーでばったり会ったそうです。

ばったり会ったとは言いながら、その人はうちの地元でコンビニを営んでおり、店に行けばだいたいいつもいるので、父としても「会おうと思えばいつでも会える」というような感じでした。

父とその同級生は小学校から高校までずっと同じだったようですが、高校三年生のある日、父はその人に卒業後の進路について聞いたそうです。

するとやはり家業が「そこそこ儲かっている酒屋」ということだったので卒業と同時に家業を継ぐという感じのようでした。

父を含め、進学や就職等々について悶々としている同級生を尻目に遊び呆けていたという感じのようでした。

「羨ましいなぁ」

と同級生たちは口を揃えていたようですが、父は父で進学を決めていたようなので「オレはやりたいことがあるんだから別に羨ましいとは思わないよ」という感じで他人事として扱っていたようでした。

それから数十年して、酒屋では食えなくなってきたその人は、例のごとくコンビニのFC加盟の道を辿ることになりました。

結果は案の定、最初は良かったもののドミナント戦略によって「生かさず殺さず」という状態となりました。バイトさんの賃金を払うと大赤字になるので超絶ブラック労働です。

ということで、僕もたまにそのコンビニに行きましたが、「いつでもそのおじさんがいる」という感じでした。

継いだ家業が傾いた時、中長期的な経営を考え「それ以外の切り抜け方」を思いつこうにも、それにはやはり様々な意味での経験値が必要となります。

スタートが「与えられたもの」だったので、いざ自分で道を選択しなければならないという段になった時でも、やはり「誰かが道標を示してくれるもの」を選んでしまいやすいのでしょう、ということを思ったりしました。

家業を継ぐということは良いですが、自ら創業するというようなパターンとは異なる形で「様々な乗り越えねばならないポイント」が出てきたりします。継がせる側も継ぐ側も、直近の10年、20年の経験則で、次の10年、20年に対して慢心を持つというのはリスクが高すぎます。

昔は通用していたものが社会環境の変化で通用しなくなった、という中、土地建物や設備等が固定化されているというような感じだったり、方向転換に対応するには少し厳しいような「昔から働いている人」がたくさんいたりというような感じです。それ自体がいけないわけではありませんが、優位性をもたらしていたスキルが方向転換後には使えないというような場合があったりもしますからね。

さて、その後その方は、ガリガリになりつつも契約期間満了によりコンビニ経営から解放されました。

ということで、生活時間帯が変わり、スーパーで父とばったり会ったということのようでした。

父は「おう!」と元気よく声をかけたようでした。

しかし、父が聞いたのは次のような言葉でした。

「〇〇くん。僕はもうガンであと三ヶ月なんだ。

僕の人生は一体何だったんだろう。

〇〇くん。僕の生き方がいけなかったのかな?

僕はどこで間違えたのかな?」

己が能を磨きたるを奪われしものでないか。

家は頗る富みさかえて有りけるが。

Category:菊花の約

「家は頗る富みさかえて有りけるが」への2件のフィードバック

  1. 御無沙汰しておりました。世間では「道路族」という者に対して「私も受けている、どうにかならないか」という意見が多く、被害者が明るみに出てくれる事で条例可決など、良い方向に向かってくれればと思っています。
    今回の記事についてですが、少しだけ「アリとキリギリス」の話を思い出しました。勿論、お父様の友人も多少なりとも努力はされていたとは思いますが。バブル期に良い思いをしていた経営者や会社員は「一生この景気が続くだろう」と信じて疑わなかったという話を聞きます。お父様の友人もそれに近いものを抱いていたのではないかと私は思います。
     気になるのは「家庭(妻子ですね)を持っていたか?」という点です。苦しむのがお父様の友人1人であればまだ救われますが、これが妻子となると被害者は一気に3倍です。後先を考えずに「将来は子供に継がせればいいか」と子供を作ってしまう経営者は非常に多いと聞きます…私は「今の環境(独身)が変わる事」にプラスよりもマイナスなイメージしか出来ないので動かないのですが…従業員の方々にしても、妻子にしても「背負う者」がいるという精神的負担は大きいのだと改めて学ばせて頂きました。そういった意味では動かない事もまた大事だと思います。(まとまりのない終わりですみません(>_<))

    1. コメントどうもありがとうございます。
      「それほど騒ぐほどのことでもないしなぁ」と抑制されていることも問題が問題であることが認識されてくると一気に解決の方に向かうことがあります。多勢に無勢の時は文句を言ってくる変人とみなされたりもしますが、逆転すると先駆者として扱われたりします。より良い方向に向かってくれればと思います。
      さて、父の同級生の方ですが、お子さんを含めご家族の方も店先によく立たれていました。
      コンビニの場合はやめる時に違約金などが設定されていてだいたい十年、十五年の間縛られるという感じになったりしていますが、ご家族にまで手を借りるということになるならばそれはそれで、違約金などがあろうとも撤退するという選択肢も良いのではないかと思います。
      どのような業種にしても廃業リスクや連続赤字のリスクなどはありますが、そうした時の判断が大切だと思っています。
      負債と固定資産が多い場合は身動きが取りにくくなりますし、そうした構造がある場合は、それをきちんと見て出来る限りのリスクヘッジをしておくことが必要だと思います。
      僕たちの世代は、思春期に親が廃業したり失業したりということを経験している人が結構いたりします。
      社会に出る前から「浮足立って過ごしていた人たちが結局沈没している」という構造を見せつけられたので慢心を抑制するということを学びやすかったと思います。
      同族企業にしても創業した会社にしても、自分が作り出した空間を他の人に侵食されたくないという気持ちは一応わかりますし、その結果子供に継がせるということを思いつくプロセスも理解はできますが、自分の思いを子に押し付け、時代にそぐわないものを押し付けることにもなるという構造を持っていますし、相手の自由や尊厳を奪うことにもなります。
      そういうことを回避するために、経営・運営と権利を分離させることのできる株式会社などの仕組みがあるのだと思ったりもしています。
      「精神的負担」に関しては、相手の自由と尊厳を解放すると負担感が大幅に減ると思います。
      「所有」や「拡大した自我としての集合」と思えば、責任や思い通りになって欲しいという気持ちが強まってしまいます。その結果、様々な焦燥や自責、思い通りにならないという苦しみがもたらされてしまいます。
      ある行動や社会関係性の構築は、全てプラス面とマイナス面があります。それを為さなければ経験し得ないこともありながら、それを為すがゆえに起こる煩いもあります。
      マイナスに思えることも後で振り返ると見落としていた論理の穴を発見したり、良い精神鍛錬になったりということもあります。なので、回避するというのもひとつの良策ですが、求めることも抵抗することもなく気楽に過ごすのが一番だと思います。

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