多義性や曖昧さを嫌う無機質さ

多義性や曖昧さを嫌う無機質さについて触れていきます。

「何だか面白くないなぁ」と思ってしまう要因の一つは、コンピュータを経由することで生じる「多義性や曖昧さを嫌う無機質さ」にあると思っています。

「再現性のためにより具体的に」ということもわかりますが、そればかりでは有機物たる人間は面白さを無くしていってしまうということが起こりうるという感じです。

再現性を高めるためや誤解を避けるため、解釈に多様性を持たせないために具体的に表現するということが望ましい場合もありますが、曖昧性を持ち、多義性を持つ表現の方が適している場合も多々あります(曖昧さのもつ力)。

ファウストの翻訳

最近荒俣宏さんが訳されたファウストを読んでみました。この訳はジョン・マーティン・アンスター氏(John Martin Anster,1793-1867)による英訳版(ゲーテ作の原著ファウストはドイツ語)から日本語訳したという感じです。ハリー・クラーク氏の挿絵とともに観るファウストは、他のファウストよりゆるく、訳注がまた面白い感じになっています。

そして巻末の解説には次のようなことが書いてありました。

従来のドイツ語からの訳文は「秘密の恋もうれしいわ」といった穏当な表現であるのに対し、この英訳版では「気持ちいいのが一番、早く抱かれたいの」といった露骨なものになってしまう。英訳者のジョン・アンスターはアイルランド人で、ドイツ語の多義性、曖昧さが気に入らないらしく、暗示的な部分もそのものずばりの単語にしてしまう傾向があるのだ。

ファウスト(荒俣 宏訳)新書館,2011,p527 ― 解説 神秘の風刺劇『ファウスト』に挑むクラーク最後の力編 荒俣 宏氏より

「多義性、曖昧さが気に入らないらしく、暗示的な部分もそのものずばりの単語にしてしまう傾向」

まさにこうした英語圏の気質、そしてそれが反映されたインターネット空間が、近年の面白くなさを助長しているような気がしてしまいました。

それはそれで一つの気質であり、一つのメリットもあります。そして、そのあり方が他の要素と絡むことで、新たなる文化芸術空間を生み出すということもあるでしょう。

まあこのファウストにおける若干のずるむけ感、そして意義を明確にするために原文に追記を加えるというアンスター氏の勢いもまた「ある人間のゲーテへの思い」という別の側面、翻訳者というモノの持つ一種の芸術性すら感じたりもします。まあ原作に対する舞台の脚本のようなものでしょうか。

ファウストは世界屈指の名著ということで、世界中にたくさんの訳があるので成り立っていることにもなりそうです。訳がそれだけなら、「勝手に変えるな」ということになりそうですからね。

アンスター氏の訳をさらに日本語訳してハリー・クラーク氏の挿絵を挟むということで、またゲーテの持つ面白さが一つ際立ったような感じでなかなか面白かったです。

多義性や曖昧さを嫌い、再現性のある具体的なものを好む

さて、「多義性や曖昧さを嫌い、再現性のある具体的なものを好む」

というのは、まさに近年の様々な検索アルゴリズムのようです。理系であっても行き切ると抽象的だったりもするのですが、多義性や曖昧さを嫌いという部分は、広い意味での理系の感覚であり、古典的な理系の感覚です。

そしてそれに引っ張られるかのように、具体的で無機質なものが表面に出てきて、多義性や曖昧さを持つ、生の人間の感覚的な「有機的なもの」は、水底に追いやられるというような感じがします。

それが、日常の有機的な会話の中にも反映され、栄養価的には足りていても味覚的な満足は欠落していくというような雰囲気を作っていきます。

会話は無機質となり、血の通った者同士の関わりをひんやりとしたものに変化させていく、というような感じがします。

多義性や曖昧さを嫌う無機質さも、ひとつのあり方としていいですが、それに引っ張られすぎているような感じがしています。

そしてそうした多義性や曖昧さに慣れていない人たちが、矛盾を嫌い、矛盾を埋めるべく、よくわからないものにハマっていくという感じになるのでしょう。

「曖昧でふわふわしていて何が何だか分からない」という場合もありますが、複数の意味を含むという場合もあり、ひとつの言葉で二重、三重に感じるどころか、それらが掛け算となってさらに四重、五重にも感じるということも起こりうるわけです。

「より高い再現性のためにはそれを削ぎ落として具体化しなければならない」

というのもわかりますが、社会のあらゆるものがそうした方向性ばかりで形作られてしまうと、無機質で味気ないものになってしまいますし、自然からの逆行という隠れた要素によって、思わぬところで歪みが生じ、想定外の事態が引き起こされるということもあるでしょう。

具体化が好きな割には…

まああと感じてしまうのが、具体化が好きな割にはその具体的用法にズレがある場合も結構あるということです。

そういえば、あえてどんな検索結果になるのかという興味本位で、先日「うーまなーみなーのねー」と検索してみました。

沖縄の方言だと思っているようです。

具体化するのも野暮ったいですが、本来は「とってもウマナミ」であり本家のMEN’S 5版ではなく「たれ蔵が母ミドリコに会いに行く時の『ああもうすぐおかあちゃんに会える、おかあちゃ~ん、ぼうや~』バージョン」ということになります。

そうした勘違いがまた一種の文化としての面白さになりますが、その面白さを発見するのは有機的な人間の方であり、彼らが面白さを作るために「わざとそうした」というわけではありません。

曖昧さへの対応

一時検索においても曖昧さへの対応が強化されたりしましたが、配信する側として「具体的な方が良い」という感じになってきたのか、ずるむけ感満載の具体的なタイトルばかりになってきて、結局そうした具体性の持つものの方を優先する感じになってきました。ということで、曖昧さへの対応はほとんど意味がなくなってしまったというような印象を受けます。

まあ「人の意識の変化を想定した上で」という感じで、まだまだ改良が必要な感じがしてしまいます。

過去の最適化と固有名詞依存による風刺の抑制

言語的違和感

あと余談ですが、義務教育で説かれるような「言葉の乱れ」と言うほどのものではないですが、具体化が好きな割には、その具体的な言語に対する「違和感を感じる用法」を逆に認めているという感じがしてしまう時があります。

まあ端的には「全体的な『複合利用』としての使用頻度の高さから、それが正しいと思ってしまう感じ」です。

フリー(free)という言葉

その中で顕著なのがフリー(free)という言葉です。

このフリーという言葉の使い方に違和感を感じ、混乱している人も多いのではないでしょうか。

一般的な使い方、定義として「free」は「自由」と訳されますが、そこで登場してくるのが多義性です。無料と言うふうに捉えられる時もあります。

そんな時「グルテンフリー」と言われた場合、「は?」とはならないでしょうか?

こうしたことから「結局、フリーって何だ?」という疑問が出てきます。

多義性の中から共通項となる概念を抽出していかなくてはなりません。

日本において和製英語的にでも何でもいいので、フリーがつくものを並べてみましょう。

フリードリンク、フリーウェア、バリアフリー…

まあいくつも出てきますね。

そこで抽出できることは、およそ「フリー(free)」という言葉は、「制限・柵・遮るもの・障害が『ない』」という意味を持つということになります。

なので、単体では「選択において制限のない」という「自由」という感じですし(ちなみに「自由」は仏教から来ていて、本来は自分が思うままという意味なので適訳ではありません。適する日本語がなかったため、明治初期にfreeから無理に訳したようです)、「価格による行為の制限がない」という意味で転じて「無料」という意味を持ったりもするという感じになります。

となると「じゃあグルテンフリーは?」という感じがしてしまいます。

「グルテンを気にする人たちが『グルテンが入っているぞ』ということで制限されている食欲を阻害するグルテンがない」

という感じになるのでしょうが、言語的な構造としては適切ではありません。

というものが言語的違和感の正体です。

それまでは、ノンカフェインやシュガーレス等々、「ノン」や「レス」が使用されていたところ、急に「セレブ」という言葉を使うかのごとく「フリー」を使い出したということで違和感を感じている人も多いでしょう。

英語だけが得意という人は「わかればいいでしょ」という雰囲気を出してきますが、言語を扱うのであれば、違和感の正体を紐解くような言語学的な考察も本来は必要になってきます。

しかしながらそんなことはお構いなしな人が「最近の主流」ということで、そうした言葉を多用すると、そちらのほうが正しいということになっていきます。それがデータ依存の危険性です。

たくさんの訳を並べてこそわかる部分

まあそんな感じで、ファウストにしろ言語にしろ、たくさんの訳を並べていくと、言葉の本質的定義がつかめてきたりします。

言語など所詮曖昧な印象に対するラベリングにしか過ぎないのですが、微差的区別がついていくと、思考や感情や感覚をなるべく正確に表現していくことができるので、そうした言語的能力自体を向上させるということは、面白みとともに思考の整理や感情の整理もうまくなっていくという部分もあります。

何かしらの資格試験の勉強においても一冊の参考書だけでは全てをカバーできず、いくつかの類似した参考書を並べて、100%の理解に近づけていくという作業が必要な時があります。

僕がそれを経験したのは10代後半から20歳くらいの時でした。

傾向はあっても何が出るかわからない受験等々ではなく、具体性を帯びた資格試験であるのに一冊を完璧にやっても「そんな事載ってなかったぞ」的なことを経験し、合格に届かなかったという経験がありました。

それからというもの、参考書等をケチることなく、手に入るものは全て手に入れるという感じで、1冊で90%、2冊目で95%、3冊目で98%…といった感じで、精度を高めていく癖がつきました。

決まりきっていることに対するテストでもそうした感じなのであれば、もっと多義性があり曖昧な分野のものはさらにひどいことになってしまうだろう、ということを思い、訳されているような文献は、できる限りたくさんの訳を読むことにしています。

アンスター氏の英語訳ファウストにおいて「訳だけではなく追記もしている」という感じのように、いつ誰がどのように自分の感覚を追加していっているかわからない部分があります。

ファウストですらそうであるのならば、新約聖書などはもっと凄まじいことになっているでしょう。

そうした予測をせずに、一種類だけの新約聖書を根拠に「聖典として真理が書いてある」などと言われても…という感じでないと危険だと思っています。日英対訳でも結構発見があったりしますからね。

まあ余談ながら新約聖書においても言語の多義性の問題があったりします。何かに書いてありましたが、結構有名なところで言えば、イエスの母の方のマリアに対して、「virgin」ということが示されていますが、virginにも多義性があり、処女や未婚の女性、その他「手つかず」を意味するという場合もありながら、単に「若い女性」を意味するという場合もあるということです。そうなると、奇跡的な「処女受胎」も根本から疑わしくなりますし、現代で主流となっている定義だけで字義的解釈をするわけにもいきません。

ひとつの解釈として処女受胎の可能性を検討するのもいいですが、極端に考えて、virgin自体を「若い女性」としてみたり、対外的には処女ということにしているとか、「まだ男の人を知りませんのに」というのは恥ずかしさからの対外的な台詞である可能性も考えてみるくらいのほうが無難です。

そうした要素が膨大な記述全てに当てはまるので、解釈はかなりの幅を持ったものとなります。

もちろん気に入ったものを気が済むまでという程度でいいですが、たくさんの訳を並べてこそわかる部分を楽しむというのもまた面白みがあります。

多義性や曖昧さを嫌う無機質さも一つの例として面白みを感じた上で、それのみにとらわれることのないようにするのが理想的です。

Category:miscellaneous notes 雑記

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