固定観念への態度

「思い込みを外す」ということの続編でも書いていきましょう。思い込みとはつまり観念であり、ある程度固定化されているものは固定観念と呼ばれたりします。こうした固定観念への態度について触れていきます。

固定観念が様々な「苦」つまりドゥッカを形成しています。

「いやいやそんなことはないだろう。嬉しさ楽しさも固定観念に依る場合があるよ」

というのはわかりますが、前回の流れでいうと、「『うまくいかない…』『だからこそ以前はこうだったのに』という思いによる苦が生じる」ということになります。

その場をダイレクトに感じればそれで良く、嬉しさに固定観念は必要ではありません。あってもいいですが、必須条件ではありません。

では、固定観念は邪魔者なのかということになります。

邪魔をしているのであれば、邪魔者です。

たったそれだけです。

では、固定観念についての一番の問題は何かというと、「邪魔者であるのに固定化されていて変えられない」という点です。

しかし、これが固定観念の根幹です。

「固定観念は固定化されているものなので、なかなか変えられない」

という固定観念です。

「この観念は苦を生じさせるものであるとわかっているけど、固定観念なので、なかなか変えがたい」

という場合の「固定観念なので、なかなか変えがたい」という固定観念です。

これを

「本当だろうか?」

と疑うことから始めてみましょう。

「固定観念は変えられない、もしくは、変えにくい、というのは本当だろうか?」

というような、自分自身の自我への問いかけです。

もし「固定観念はなかなか変えられない」という固定観念があれば、「自分にとって不要で邪魔者となっている様々な固定観念を変える」ということにかなりの労力が必要になってしまいます。

しかし、「固定観念」というものそのものを完全に消去することができないとしても、「固定観念であろうが簡単に変えることができる」とか「様々な固定観念は簡単に消える、無効化することができる」という固定観念になった場合、かなり柔軟な態度になります。

固定観念によって様々な可能性を自ら断絶しています。

何かになる必要はありませんが、「苦が生じないように常に最適な可能性を選択し、常に心が安穏である」ということは、解釈の必要なく良いことであるはずです。

しかしながら、その可能性を狭め、本末転倒にしているのが固定観念です。発端は恐怖心です。

過去の自分との一貫性、親子関係等の絆の維持、そうしたものが、固定観念を形成しています。

「これしかない。こうするしかない」

という思いが生じることがありますが、全て嘘なんですね。

「このままでいいのだろうか。許されるのだろうか」

とか

「自分がやっていいのだろうか」

という思いが生じることがありますが、別に何の問題もないんですね。

あるとすれば、その不安感です。

不安感を生じさせているのは固定観念です。そしてそれは恐怖心を発端としています。様々な観念を利用してアイツこと自我が騒いでいるんですね。

観念は観念で利用するのは構いませんが、そこに執著を持ってはいけません。

例えばですが、働いたお金で家族を養うというのはかっこいいですが、別に宝くじで当てたお金で養ってもいいんですね。

妻の支えがあって外で働いて築き上げた家庭というのに誇りを持つもの良いですが、そうでなければカッコ悪いと思うのも少し違うような気もします。幸せなら何でも良いと思います。

「外で働いて得たお金で養っている」という構造がないと、夫や父としての威厳が保てない、というような観念がくっついていますね。

威厳が保てないと、言葉に重みがなくなるというのも違いますね。

どこかで「すごいと思われたい」というものを持っています。

そうしたものは自尊心の問題です。

自尊心の問題を家庭や経済社会という観念とごちゃごちゃにしているだけです。

人に対して威張ったりコントロールしようとしたり、嘆いたりするというところが嫌われる原因なだけです。

それを「外で働いて養っているという構造があれば、ある程度は許容されるだろう」と思う観念がありますね。

「君たちにはできないことをやって、君たちの生活を守っているんだ」

ということを根拠に、威張っていいと思っているということになります。

なぜ威張りたくなるのか?

自尊心の問題ですね。根源は恐怖心です。

逆に「そうした構造で生活していては堂々としていられない」というような観念がある場合もあります。

それも自尊心の問題ですね。根源は恐怖心です。

それは、「こうしなければならない」「これしかない」とは関係ありません。

楽をすると

「かつて、歯を食いしばって耐えた自分を否定するような気持ちになってしまう」

というのも違いますね。

別に否定はしなくても構わないはずです。

「あれはあれで良かったなぁ」

という感想でも良いはずです。

固定観念として「労働を介さずにお金を得る」ということへの抵抗がある場合があります。

「体に鞭を打って働きに出ていた母の生き方を否定してしまう」

という固定観念がある場合ですね。

これは「お母さんとの思い出」を利用した自我の騒ぎです。

別に働かずしてお金は入ってきても問題はないんですね。

働くにしても嫌な思いをしたり苦労する必要などどこにもありません。

一生懸命飛び込み訪問をしてお客と出会うというのもいいですが、友達から電話がかかってきて、お客さんを紹介してもらうというのでも問題はありません。

この時、飛び込み訪問であれば、お客がなかなかつかない時「自分が頑張れば、またお客と出会える」というような安心や許容がありますが、友達からの紹介の場合、自分は特に何も働きかけていないので、「再現性がなく不安になってしまう」というような構造が潜んでいたりします。これが観念として固定化されていたりします。

そして「そんなことはめったに起こらない」という固定観念もあります。

企業における上司たちの考え方もだいたいこんな固定観念で溢れているでしょう。

なので、汎用性があり、再現性があるような方法論以外は受け付けないという固定観念ができていきます。

では、固定観念がなくなれば、もしくは変化すれば、何でもできるのかということになりますが、だいたいのことはすぐに叶います。

しかしながら気持ちの奥底を見ずに別の固定観念に汚染されているため、それが叶うということはありません。

例えばですが、「固定観念がなくなれば、すぐに医師になれるのか?」というようなことを思う人がいるとしましょう。

なれませんね。

本当に欲しているのは医師になることではなく、人に馬鹿にされないとか、お見合いパーティでモテるとか、健康保険制度のおかげである程度高額の安定収入があるとか、そうした点だからですね。

つまり、安心が欲しいだけですね。

人に馬鹿にされない自信、モテる自信、お金がある自信が欲しいだけですね。

それを朧気な情報を組み合わせた「観念」をベースに「考えて」、ひとまずの最適解として想起しただけですね。

そうしたものにならないと、安心できない、自信を得ることはできない、モテない、お金は入ってこないという固定観念の方を疑うべきです。

また、統計データを根拠にすることはやめた方がいいですね。見てもいいですが、たいていは、「できない」という方の固定観念を強化するだけですから。

さらに、「大変だ」「大変よ」というような、周りの人の声も意味がないので、聞く必要はありません。

何かにつけて「大変だった」「きっと大変よ」という感想は正しくても、ほとんどの場合は、その感想を根拠に自尊心を保ちたいだけですからね。

あまり固定観念が強くない子どもの頃は、勝手に思い描いたことが叶ったりします。

「それそのもの」かどうかはわかりませんが、想像以上の良い経験がやってきたりしますね。

「そうしたければ、こうしなさい」

というのは、通常の考えとしては正しくても、「可能性としてはそれだけではない」という場合もあります。

大人はそれを受け入れにくくなっています。観念が固定化されているからです。

そういえば、小学生の終わり頃にハイロウズを聴いて、「いつか会えたら良いなぁ」と思っていたら、中学校に入ってすぐに、友達のお兄さんが「仕事でいけなくなったから代わりに行ってこい」と、ライブチケットをくれて友達と二人でライブに行ったことがありました。

「お小遣いを貯めて、チケットを買って…」というプロセスなど不要でした。

また、中学生の終わりくらいにディルアングレイに対して同じようなことを思っていたら(中学生の時、彼らがメジャーになる前に野外ライブに行ったことはありました)、高校に入ってしばらくして、友達が「うちの知り合いが…メンバーの一人の師匠みたいな感じやから、今度の京都のライブの後に…」という感じで、ライブ終わりの控え室前で握手をしてもらったりしたことがあります。

また、高校生の終わりくらいに、10-FEETが学校で流行っていたのですが、先の事例と同様のことを思っていたら、卒業後すぐくらいに友達が「今度一緒にライブするから」と、ライブにタダで入れてくれた上に記念撮影等の配慮までしてくれたということがありました。

僕は一切、何もしていないんですね。

交通費は別として、お金も必要なかったんですね。

「今度そんなチャンスがあれば」とすら思っていないんですね。

「そういう話があったら持ってきて」と周りに言っていたわけでもありません。

もちろん、ハイロウズ、ディルアングレイ、10-FEETの話を友人にしたりしていました。でも一般的な話題の一つ程度です。

もちろん、友達やそのお兄さん、お知り合いの方、そしてご本人たちには感謝をしています。

ただ僕は、そうしたことが起こることを「普通」だと思っているんですね。

対象を特定して、可能性の中で最適なものを選んで、ということも日常ではありますが、何かに執著することはありません。

友達経由で素敵な経験がやって来る可能性を期待していたわけでもありません。

でも、なぜかやってくるんですね。

「僕は、それを実現するために…」といった感じで、頑張ったわけではないんです。

「そんな人がいたら、頑張ってきた私がバカらしいじゃないか」と思う人もいるかも知れませんが、そういう人がいても本当は自分には問題がないんです。

「思い込みを外す」ということ

Category:miscellaneous notes 雑記

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