自分自身の深い部分で「対象を受け取る器」が無いとそれは現実にはやって来ません。これは当然といえば当然のことであり、何も不思議なことではありません。
そしてあまり語られませんが、器に余白がないと、一時的に壊れることもあります。ただこれに関しては、器というよりもエネルギーや気力の余裕といった方が印象としては近いかもしれません。
現実に即したような形でも「受け取る『器』」を捉えることもできますが、説明不可能な感じで何かを受け取ることもあります。
僕にとってのその象徴は養子のうさぎでした(Kさんちのうさちゃんと我が養子)。
でもその頃、器に対して限界を越えるくらい様々な物事が怒涛のように同時に押し寄せ、結果生活環境はかなり変わりましたが、同時に「ツキの波」を失いました。エネルギーや気力が現象に変換され、枯渇したというような印象でした。
現実社会における「受け取る器に応じた現象」
現象は概ね受け取る器に応じた形になっています。
それは現実社会で考えても普通のことです。
例えば、時給1万円の仕事があると言われた時、すんなりそれを快諾できるでしょうか?
「時給が1万円くらいあれば良いのに」と思っている人は多いはずですが、実際に目の前にあってもそれを掴み取るということはあまりありません。
別に怪しいとか危ない仕事でなくても、例えば内容が企業の「営業戦略の相談」であり、3時間で3万円の報酬であったとしても、ほとんどの人はそれをやろうとしません。
むしろ人によっては「そんな金額で受けるわけがない」という感じになる人もいます。
そうした自分のイメージが一つの器です。
こうしたことは至るところで結構語られているようなことです。
また、単に金額だけでなく「面白そうならその金額でもいいですよ」というような感じになる場合もあります。それも一種の器です。
で、だいたいはそんな感じで「時給が1万円くらいあれば良いのに」と思いつつも、実際にそうしたものが目の前にあったとしても、「大丈夫だろうか。責任問題にならないだろうか。緊張して大失敗しないだろうか」というようなことが頭を掠め、受け取らずじまいになります。
それどころか、そうした仕事があることが目に入りません。しかし、実際に社会では時給1万円以上の仕事は数え切れないほどあります。
素人がやると数ヶ月かかるものを玄人なら10分でやりこなせる、というようなものは意外にたくさんあるものです。また、ちょっとした講演の依頼を受けるだけで数万円の謝金、というのはどこにでもある話です。
それほど高度なことでなくとも、世の中には「考えられないほど素人」というような人たちもたくさんいるので、そうした人を手助けするだけでもすぐに報酬は手に入ります。
怒りによって大きくなる場合もある「受け取る器」
こうした「受け取る器」は、怒りによって大きくなる場合もあります。
想像に容易いですが「自分より給料をもらっている仕事のできない上司」を嫌だなぁと思うこともそれに該当します。
それ以外にも「あの人であれくらいの報酬なら、自分はもっともらっていなければならない」と思うような局面はたくさんあります。
それをどう解釈して、どう方向づけるかだけで、悔しさ的な苦しみを味わうのか、それとも器を大きくするのか、というところが変わってきます。
これは、求める給与や報酬といったものを相手に提示する時に影響を与えます。
「おいおい、それじゃあ、あの『能ある鷹は爪を隠す』のおじさんと同じ評価になるじゃないか。ふざけるんじゃないよ」
といった感じです。
また、怒りではないかもしれませんが、次のような考えも有効的になるのではないでしょうか。
例えば「100万円くらいのアクセサリーを気軽にプレゼントしてくれるような人が現れたらなぁ」と思いつつも、「それに合わせたように何かを求められるかもしれない」と思っていたりします。
そんな時に「水商売の人ならそんなものをポンポンもらっているのだから、別に気にすることもない」というふうに考えるというような感じです。
(まあもちろん変に最初から資産があるような状態からスタートするよりも、徐々に高まっていく成長感や二人三脚感の方を求めているという場合もあります。その場合はそうした面も大切にしましょう)
不思議な「受け取る器に応じた現象」
さて、先ほどまでの「受け取る器に応じた現象」は、普通のお話ですが、「養子のうさぎとの出会い」等々、説明がつかないような現象も結構起こったりします。
「養子のうさぎとの出会い」に関しては、通りすがりとなりますが「同じ種のうさぎ」をよく見ていて、その後しばらく「家にうさぎがいたらなぁ」と思っていたら、約一年後にひょんなことから「養子のうさぎ」が養子入りすることになった、というような流れです。
「うさぎが外に出ている時に声をかけた」ということ以外、何もしていません。
大切なのは掴み取るということだけです。努力の「ど」の字もありません。
受け取る準備
現実的な受け取る器にしても不思議な現象にしても、ひとまずは受け取る準備をしておいた方がより一層現実になりやすくなります。
俗っぽい事柄で言えば「彼女ができた時を想定して部屋を片付けておく」というようなことですね。
ただ、思い込みレベルが完全に自己洗脳状態になっているのならばまだしも、そうでない場合は、あまり受け取りに関することは他の人には言わないほうが良いという感じになっています。
特に某学生ベンチャー企業の代表のように先にカッコをつけるような感じで、「オレはこれからお前らの面倒を見なければならないんだ」というようなことは言わない方が良いでしょう。
ちなみにですが、僕は20代前半の頃、「彼女になり得る人が現れた時にすぐに渡せるように」と、Mr.ChildrenのシングルCDを2枚買って、1枚を自宅に置き、もう1枚をかばんに入れていたことがあります(その数ヶ月後に渡す相手に出会うことになります)。
器の余白
基本的には器に応じた受け取りが生じますが、時に器を少しはみ出したようなものを受け取ることがあります。
そのような感じで器に余白のない状態、さらにはみ出した状態が生じると、当然に歪が生じます。
エネルギーと器に応じて現象が訪れるのは良いのですが、それまでの器では抱えきれないほどのものがやって来る場合があり、そうなると、当然に何かが壊れたりします。
もちろん不要なものとして、捨てていくというような感じになる時もあります。体が壊れるという場合もあります。
何かがやってきてそれを受け取るということは、必然的に変化が起こります。もちろん諸行無常として常に変化はありますが、微妙な差ではなく日常の環境を継続できないような変化としての変化が起こるという感じです。
うさぎがやってきたら「うさぎのいる生活」に変化しますし、外出や勤め先などにも若干の制限がかかります。彼女がいない状態から彼女がいる状態になった場合も同じようなものです。
もちろん、仕事面でも出世するとなれば今までの仕事内容とは違ったものを求められることになりますし、勤め人から起業という場合はもっと大きな変化がやってくることになります。
ただ、そうした時に器を大きくするということをしないと、何かが不都合な感じで歪み、そして壊れていったりします。
それを恐れて「受け取る器」を変化させまいとする感じにもなっています。
余白がなく、エネルギーが不足していると、切り捨てるように何かを犠牲にすることになる
この器を大きくするには、イメージというか感覚の変化の他、エネルギーが要ります。
器が広がる時にエネルギーを消費していくという感じになり、エネルギーが不足していると、不足している分だけ何かが壊れたり、何かを失ったりしていきます。
それらは「その後の生活に不要なもの」という場合もありますが、大きな目で見ればそうでもないようなものであるような場合もあります。
よくあるのが、急成長中の企業の社長が、家庭を壊してしまうような感じです。
仕事に注ぐエネルギーを考えれば、家庭に注ぐエネルギーはなく、いずれかを取らねばならないというような状態になっていたりします。
会社を大きくするということに関して、家庭はむしろ足手まといになるという場合があります。なので、向かう方向に関しては不要なものというふうに映ってしまったりしまうわけです。
しかし高い視点から観ると、後々「自分には何も残らなかった」というふうになる可能性もあるのですから、家庭も含めて全てがうまくいく方が良いに決まっています。
高いエネルギー状態と、高い視点、並列的な情報処理ができれば、全てがうまくいきます。
しかし、余白がなく、エネルギーが不足していると、切り捨てるように何かを犠牲にすることになります。
ということで、そうならないように「エネルギーを高める」ということも、事業を拡大するのと同様に重要なことになるわけです。
しかしながら世の中では「直接的に人の役に立たないもの」については「何をやっているんだ?」と白い目で見がちです。
比較的一般的な趣味であれば許容するものの「サボり」に見えるような遊びには不寛容です。
しかし、仕事や家庭をさておいて友達と銭湯に行き「モンモンモン」の話で盛り上がるということはそれくらいに重要なのです。
「勤務時間中に映画を観に行く」ということをしているやり手の営業さんなどは感覚的にこの事を知っています。
「中長期で結果を出せばそれで良い」という感じなので、それでもいいわけです。
僕はゴルフをやりませんし、今後もするつもりはありませんが、本当にそれがやりたくて、かつ、自分のお金で行っているのであれば、別に仕事と称してゴルフに行ってもよいのではないかと思っています(ただ、ゴルフは良くて、ゲーセンはダメという風潮はいけません。同等に扱うべきです)。
そのような感じで、大きなものを受け取ろうと思ったら「ちょっとした散歩」すら蔑ろにしてはいけません。
傍から見ると「関係ないじゃないか」と思われるようなことでも、何かを集中してやることと同等に重要なのです。
それを義務教育の成れの果てのように「関係ないことをするな」と人にも自分にも言っているうちは、器は大きくならないか、受け取りに応じて何かが壊れてしまう、というようなことになりかねません。
最終更新日:
彼女がほしいと思ったのは一年くらい前ですが、欲している最中に妹が転がり込んできました。母親からの打診の電話があって断ることもできたのですが、受け入れました。僕は誰か話し相手がほしかったのだと気づいていたからです。
今の仕事は場所にもよるのですが、完璧さ潔癖さ公平さを強く求めてきます。上司が求めてこなくても、職場内にそういう風潮があり、各々のエネルギーやメンタルが削がれてきます。また、悲観的でいることが望まれ、全て全力でやること、失敗は断じて許さぬという風土が疲弊を生み出しています。息抜きは大事だが気を抜くな、と言われているような気がする世界です。
完璧さそして最上の結果を速やかに求められるわけですが、元々僕はマイペースなところもあり、必ず自分の思ったとおりになるとも思っていないので、あまり周りから快く思われていない気がします。
しかし、「中長期で結果を出せばそれで良い」し、エネルギーの「余白」、静観してさあどうなるかという心の余裕が、仕事としてよい結果を生んだこともありました。友人にも恵まれ、妹と住むこともできました。そうしてかつてコメントした「慈悲」の諒解は、妹と過ごしてからのことでした。
無駄なことも、関係ないことも当人がそう思うだけで、それが他人に当てはまるかは別なのに、多くの人はしかもよかれと思っているのが残念です。他人の気力を削ぐという構図ですし、思ったとおりにならないからムカついているのでしょうが、僕はその手には乗らないぞという感じです。しかし相手の怒りには影響されません。常に慈悲です。これだけは忘れません。僕の「余白」によって手にすることができたのですから。
壊されないように、歪まないように、しっかり見つめていきたいと思います。
コメントどうもありがとうございます。
おっしゃる通り、相手の怒りは、一応相手の都合によるものですから、感情として反応する必要はありません。そして良かれと思って言ってきてくれることも多々あると思います。
そんな人達の雰囲気をどうやったら軽くして、かつ、自分は自由に過ごせるか、というところを発見するための「お題」であると考えると面白くなってきたりします。
そうしたゆるやかさを常に実現する状態、常に対応できる能力を無意識的に意図しているという場合もあります。
「変な雰囲気すらも演出」といったように、喜劇で主人公が楽々と状況を作っていっているような、そんな楽しさを楽しんでみるというのも面白いと思います。
(余白があればそんな楽しみを満喫できると思います)