体験と精神の薬

手塚治虫氏の漫画の中には戦時中や終戦直後の日本を取り扱った作品がいくつかあり、直接的でないにしろそうした体験を元にしたような描写が各作品に散りばめられたりしています。

社会のあり方や人間のあり方、そして人間以外の様々な生き物との接し方などについて、現代でもいろいろな人が色々な表現で描いたりしていますが、どうしてもリアリティに欠けてしまう場合があります。

それはやはり直接の体験ではなく、言語的・思考的な産物としての意見や感覚を発端としているからではないでしょうか。

直接的な体験

動物との違いとして言語による情報の伝達、時に時代を越えてそれらがもたらされるという特殊な環境を持っていますが、それゆえに直接的な体験があまりにも軽視されているような気がします。

もちろん「戦時中」を体験しなければ、手塚治虫氏と同じような感覚がつかめないからという理由でわざわざそうした環境に飛び込む必要はありません。しかしながら、近年の情報伝達のあり方に要因があるのかもしれませんが、あまりにも科学的っぽいデータに偏り、それを利用し、直接的な経験をせぬまま語ろうとする人が増えてきたような気がします。

確かに頭の中で思い描いたことは直接的な体験と同じくらいに作用するという面もありますが、だからといってそれにどっぷり浸かっているだけでは本質がつかめなかったりします。

情報を通過することによる一過性の満足

そんな感じで、よく新興宗教とか自己啓発セミナーを渡り歩いたり、自己啓発本を次から次へと読み耽るだけで一過性の満足をしたのち、また次の満足を求めて彷徨うような人もいます。

参考書を買っただけで賢くなったような気分になるような感覚です。結局は問題を解いたりしていかないと身にはつきません。

それと同じように情報を通過するだけでは一過性の満足だけで終わったしまいます。

リスクに対する評価

セミナーに参加したり本を読んだりするうちはリスクがありませんが、実際に何かをやってみるということには様々なリスクがあります。そしてそのリスクを過大評価し過ぎているような気がしてなりません。

そのリスクというのは、だいたい

「今までせっかくスマートにカッコをつけてきたのに、カッコがつかなくなるのは嫌だ」

という程度のものでしかないと思っています。

直接的な体験と「本質」

自分の気に入ったものでもいいので、何か一つでも実行してみれば、必ずその結果が返ってくるので何かしらは直接的な体験としてリアリティを帯びた情報として己の糧になります。

ただ、直接的な体験であっても、その本質を全てつかめているかは別問題です。

例えば、マルチネットワークを始めて、「成功者になれる!」(笑)と一時的に高まった気分、高揚感を感じたことは確かに本物ですが、それはその場の感情という意味で本物というだけであって、それは錯覚によってもたらされたものだ、ということは別問題として残っています。

精神の薬だとしても薬は少量の毒

さて、薬は基本的に少量の毒です。

だから普段飲むことはありません。

痛み止めにしろ、それは痛みを感じにくくさせることが目的であって、根本的に治すために用いられるものではありません。

宗教や自己啓発による気分の変化は「薬」のようなもの

世の宗教や自己啓発による気分の鎮静や高揚は、この薬と同じようなものだと思っておきましょう。

頭痛がする人に対する鎮痛剤のようなものです。

しかし、根本的に頭痛が起こらないようにするためには、生活のあり方を見直さなくてはいけません。

ただ、「生活環境を変えるのは嫌だ」というのが世間の本音です。

そして生活環境を変えないからこそ、また定期的に頭痛が起こるという感じになっています。

さらにまた、頭痛が起こった時に鎮痛剤で治ったような気になる、という感じになっています。

その繰り返しが、宗教と自己啓発への依存という感じです。端的に鎮痛剤依存症だと思っておきましょう。

カルト宗教にありがちな「怪しい瞑想」なんかは鎮痛剤の粋を超えて違法薬物レベルだと思っておいたほうが無難です。依存と心身の破壊をもたらします。

根治と「都合」と鎮痛剤

さて、根治をしようと思うと、基本的に人々にとって都合が悪いことばかりを心がける必要があります。

いわば若者が「夜更かしはやめなさい」という風にお説教をされているようなものばかりです。

ゲームをやりたい、深夜までゲームをやり続ける、頭痛が起こる、というプロセスにおいて「ゲームの楽しさに踊らされるな。ゲームを捨ててしまいなさい」という感じです。

一方人気のあるような宗教は、「ゲームを楽しんでください。頭痛が起こったら鎮痛剤がありますよ」という構造になっています。

痩せたいと思っている人が食事量を自己管理するよりも「痩せ薬」に飛びつくのと同じです。

その鎮痛剤というのが、祈りや勤行、そして信仰と言われるようなものです。

「頭痛は起こりつつも楽しい」を幸福だと定義しているか、「頭痛が一切起こらない」を幸福だと定義しているかの差のようなものです。

そして、「痛くなったら痛み止め」という構造がある限り、慢性的な頭痛が根治するどころか、逆に体はより一層傷んでいきます。

宗教にしがみつくのは、歪んだ分を薬でごまかすようなもの

本来「痩せよう」となど思わなくても、食事中や食事前の感情を観察し、体を意識で観察していれば自然と適量を摂ることになり、自然と健康的な体になっていきます。

しかし、感情を野放しにして感情に任せるまま暴飲暴食を繰り返しつつ「痩せ薬」に飛びついているというのが世間の様子です。

そして宗教や自己啓発セミナーは、その「痩せ薬」を提供することで人気を獲得しているというのが本質であって、何もたくさんの人に支持されているから素晴らしいというわけでもないのです。

本来は「することをやめる」という方向性であるべき中、散々怠けた後に「何かをしなくては」と焦燥感に駆られている人にとって「やることを提示してくれる存在」として助け舟に見えるということです。

端的に「人々にとって都合が良い」というだけだということになりましょう。

ただしその「都合の良さ」は、アイツこと自我の目線での都合の良さです。

そして、一時的な不安感の払拭や気分の高揚をもって正しいとしてしまうことは、その場しのぎの鎮痛剤で根本的な頭痛問題が解決したと思うことと似ています。

そうしたものは所詮「精神の薬」であり、薬は少量の毒だということを肝に銘じておきましょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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