凛として淡々とした平常心

まあ社会的な騒ぎで微妙に狼狽えてしまっている人も多いと思いますが、僕はいつも通りの平常心のままだったりします。

本当に必要なニュースは嫌でも誰かが伝えてくれたりもしますし、社会的な不安ベースの情報は「見ても仕方がない」ということを十代の時に思ったので、特にニュースも見ていません(自宅にはテレビ自体もないですからね)。

どのような社会問題も、今一度普通に冷静に考えてみると「あまり関係がない」ということを思ったりはしないでしょうか。

「当事者とするならば」ということを思って、感情の動きや思考の動きを想定するという「能力」はいいですが、それ以上に感情的に同化したり、関連思考によって不安を作り出すということは普通かもしれませんが、愚昧たる姿です。

歪みの矯正という視点

今あるものが壊れる、今ある日常が変化するということは、基本的にマイナス要因として捉えられたりしますが、よくよく観察してみると「それで本当に困るのか?」ということを思えてきたりするはずです。

地元京都では「ようやくいつもの祇園に戻った」とか「嵐山に風情が戻った」とか「自分たちの知る伏見稲荷に戻った」というような地元民の安堵の声がよく届いています。

「住宅ローンが大変だ」という声もあるようですが、フラット35にちなんで35年の間、何の変動もないということを想定するほうが異常だと思っています。

今から35年前といえば1985年です。その頃から2020年までの間にどのようなことがあったでしょうか。バブルの崩壊に始まり、無差別テロ、複数回の大震災、携帯電話・コンピュータ・インターネットの普及、派遣やフリーターという概念の登場、リーマンショック等々、数え上げればキリがないほどの変化があったはずです。

バブル当時、「今の時代に不動産に手を出さないやつは馬鹿だ」と言っていた人たちの多くは首をくくることになったりしました。

よく「歴史に学べ」などといいますが、そんな直近の出来事にすら学んでいないということになります。

ただ、毎度毎度ながら、大体は中長期的に、そして大局的に見ると「それほどマイナスだったのだろうか?」と印象づくものも多くあります。

創造と破壊というコントラストが示すように、破壊があると創造があります。一部の人達はそれで大ダメージを受けますが、一方で日の当たらなかった場所に日が当たるという現象も起こったりするわけです。

ここで、歪みの矯正という視点で考えてみると、不況が起こるというようなことが囁かれつつも、「異常性、過剰性を持ったものが排除され、本質的に必要なものだけが残る」というようなことだけだったりします。

不況が到来するなどとは言いますが、本当に必要な需要というものは基本的には一定であり、「余分なもの」が削ぎ落とされるというようなことになるだけという感じです。

例えば、「食」に限って言えば、国内の人々の「食べる量」は概ね一定です。

後はそれが、内食・中食・外食に振り分けられ、内食においても、例えば地元の個人商店からの調達なのか、大規模店舗で調達するのかという振り分けが起こるという程度です。

で、そうした中、現在は「人が多いところは避けよう」ということで、大型店舗よりも個人レベルの小売店の方での購買が活発化しているということが起こったりもしています。

それは単なる「振り分け」の変動であって、人が食事をするということ自体は「必要」な要素であり、需要が無くなることはありません。

元々ややヨーロッパ的で、地域社会という色が濃かった日本の社会構造が、中央集権や大規模店舗の利用というアメリカ的な方向に向かっていたものが、元に戻りやすくなるというだけだったりします。

付加価値レベルで消滅するとすれば、必要にプラス要素が加わっていたもの、つまり宴会などです。といっても、聞いた話では、飲食店にしても「職人的な感じの小さなお店」は通常通り常連さんがやってきていることが多いようです。

そして、大規模店舗に行くためにと無駄に所有していたマイカーなどが本質的に「『必要』なものだったのか?」ということに気づくきっかけになります。

そうなると、別に「不況でやばい」ということではなく、歪んでいたものが矯正されるというだけであり、その過程で部分的に消える需要があり、無駄要素が多かったもの、過剰だったものに依存していた割合が強ければ強いほど破綻しやすいというだけです。

人によっては困るということになるでしょうが、少なくとも僕個人は何も困りません。むしろプラス要因として捉えることすらできるといった具合です。

「考えても意味のないこと」と「良い見方」

無理に「レッツポジティブシンキング!」ということをする必要はないどころか、そうしてしまうとその無理さに応じて自己欺瞞的に苦しさがやってきます。

ただ冷静に淡々とした態度で考えてみると、何かしらの出来事が起こったとしても、「その時にやること」はだいたい決まっていますし、回避するにしてもやることはだいたい決まっています。

ということで、シーンに応じて取るべき対応は既に把握しているのだからそれ以上に何か考えても意味はないわけです。

基本的に意識は自分の生命などに関わるようなマイナス情報ばかり集めようとしてしまいます。

しかし、その情報を知ったところで何かできるわけでもないようなことをいくら知らされても、不安感が増すだけで全く意味はありません。

それどころか、不安感というネガティブ感情によって気力が削がれ、抵抗力も落ち、行動のエネルギーすら奪われてしまうのでさらにマイナスです。

情報を得るにしても「これに関しての概要はこれまでで十分」という感じで最低限レベルだけで十分ではないでしょうか。

様々な報道に反応する人達を見ていつも思いますが、

「知ったところで何かできるのか?」

という基礎的な部分が歪んでいる気がしてなりません。

知ったところで何かができるわけでも何でも無い情報を仕入れて無駄に気力を奪われるくらいなら、良い見方を心がけて良い部分を抽出して、わずかながらでも良い気分になっておく方が理性的です。

「苦しんでいる人たちを差し置いて」と思う人もいるかもしれませんが、論理として「同情して何かが変わるのか?」というところも関連性がありませんし、自分の中で責任を持てるのは自分の内側だけですからね。

まあ大前提として、「この心」以外のところから「受け取る」ということはないのですから、凛として淡々とした平常心を保ち、少なくとも良い気分になることを心がけるくらいしかありません。もちろんそれは一般的な良い気分でもいいですが、究極は「感動と興奮」のようなものではなく、「安らぎ」というものになります。

もちろん「何かに依存して条件が整えば安らぐ」というタイプのものではありません。

Category:miscellaneous notes 雑記

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