内発性と自発性

一見同じように見えてしまう「内発性」と「自発性」は、似て非なるものであり、「内発的」と「自発的」というものも異なる概念です。

まあ言葉の定義というものは、各々の方々によって違ったりしますが、ここでは、アリストテレス的に内発性と自発性について少し触れていきます。先程、類語について触れていたのでそのついでです。

世の中では内発的動機づけと称しながら、人をマインドコントロールしようとする人たちがいます。新入社員研修などでもありがちです。

その内発的動機づけという言葉における内発的という言葉は、おそらくアリストテレスが言っていた内発性とは若干異なるとは思いますが、少なくとも目先の利益や目先の合理性の検討から自発的に行うことと内発的な動機は全く概念が異なります。

という旨を中心に書いていきます。

内発性と徳(アレテー)

では内発性とは一体何でしょうか?

それは先の「目先の利益や目先の合理性の検討」から生ずる「自発性」と全く異なるものです。

内発性とは、「自然と内から湧いてくる」ような力やその方向、性質のことです。アリストテレス的に言うとニコマコス倫理学におけるアレテー(ἀρετή )、つまり、徳です。まあ元々はソクラテスがふんわりいい出した感じの抽象的な印象です。

だいたいですが、この「徳」とは個人を超えた社会のことも考えて起こるような卓越性をもったものという感じです。一般的な道徳における徳のようなものです。世間において自己中心的な人を批判する時に使われるような対義概念です。

で、先の「自発性」についてもう少し触れておくと、社会的な義務としての直接間接の強制や同調圧力とか、個人の利益を中心として合理的に検討した上で最適だったから起こった意志の力や方向、性質といった感じです。

この内発性と自発性を「ふるさと納税」で軽く考えてみましょう。

「返礼品」が良いものだからとかそうした感じで、特定の自治体に納税するのが自発性であり、「別にもらえなくてもいいし、地元のことが好きだから」というのが内発性といった感じでしょうか。

でも、「地元が好きなことをアピールしてモテよう」とするなら自発性が高まります。

で、誰に評価をされなくても、純粋に「僕はこの地元が好きだ」という気持ちをもって為すのならば内発性を帯びていることになりますし、その行為の動機は内発的であるという感じになります。

また同じように「アンバサだ」ではなくアンバサダーについてでも同じように考えることができます。

Ambasa(アンバサ)サワーホワイト

参考 Ambasa(アンバサ)サワーホワイト

アンバサダー(ambassador)というものは、元々内発性をもって支援者となるという感じです。

しかしながら、何かのアンバサダーであることを直接間接に利用し、売名しようとか、自尊心を高めようとするならば、それは自発性をもって手を上げ、自発的に行っていることではありますが、内発性をもって内発的に行っていることではなくなります。

まあ客観的に見ると、行為そのものは同じように見えるので、短絡的に内発性と自発性を捉えることはできませんし、複合的である場合もあります。そしてさらに、そのどちらかだとしてそれで周りが評価をするいうのもちょっと違うような気がします。

そんな感じで、内発性が徳の領域になるので、いわゆる「徳の高さ」というのは「包括している対象の範囲の広さ」のような感じで捉えておくと良いかもしれません。

自分だけという領域から、自分と家族、自分の属する組織や自分の地元、国家単位、地球単位といったレベルでも考えられますし、対象を人間に限定したものから全生命体に広げれば、より包括している範囲が広くなります。

でもだからといってそれで「人から評価されよう」というのは自発性です。あくまで自然な気持ちとして、力として内から起こるものという点を見逃してはいけません。

それは内発性ではないため「内発的」とは言わない

そこで考えてみたいのが、内発的動機づけという概念です。

内発的動機づけと外発的動機づけ

内発的動機づけと外発的動機づけというコントラストの中では、あくまで自発的であれば内発的、外から強いられているものであれば外発的という感覚で語られています。

一応わかりやすさ重視ということで、「概ねその行動自体が目的となっている状態が内発的動機になります」といった感じで、「内発的動機づけは、いわば自発的な動機です」と書いたりしましたが、「内発的」というからには、厳密には少し違ったりもします。

心理学的な定義としては、「その動機が引き起こす活動以外の賞には依存しない動機でなければいけない」という、内発性と自発性が特に限定されていない緩やかな感じになっていますが、より厳しく内発的動機づけを定義するのであれば、動機が内発的であり、内発性を持ったもので無ければなりません。

もちろん主観領域であり、概ねどちらか一方というわけではなく、複合的であるため完全に区別することはできませんが、厳しく定義するとそのようになるはずです。

で、そう考えると「成功するぞ系」の人たちのモチベーションのようなものは、自尊心の補償とか生存本能的恐怖心の克服という面が否めないので、自発的動機ではありますが、内発的動機づけと外発的動機づけという二元論で言えば、内発的動機になります。

ただ、間接要因として「社会における雰囲気による圧力に負けたからこそ」とか、外界に反応しているからこそ、という視点で見れば、それは内発的動機ではありませんし、徳(アレテー)の概念から紐解いても内発的動機ではありません。

直接の賞罰による外発的動機ではないのかもしれませんが、うまく社会の中で演出されたものであるとか、オブラートに包まれた他人の都合に見事反応して、「自分も成功者になるんだ(笑)」と自発的に起こっている動機は、外か内かで言えば内かもしれませんが、結局外から起こったものじゃないか、ということになります。

なので「内発的動機ならモチベーションが続くんですよ」などと吹聴している胡散臭いコンサルタントやコーチにはご注意ください。

その人達が全くの内発性でそんなことを語っているのかどうかというところを具に観察してみましょう。

倫理学的であり社会に関する範囲

といっても、アリストテレスがニコマコス倫理学で示したりした徳(アレテー)は「倫理学」の範疇であり、いわば社会に関する範囲を語る上で用いられた概念です。

システムによる「強制力を持った抑制」よりも、社会の構成員の各々の徳の高さで不正が無くなることのほうが社会としては素晴らしいという感じです。しかし、理想論はそうですが、囚人のジレンマ的な問題もあります。

そして、やはり外界への依存という領域を出ていません。

確かに内発性によって依存度が下がり、自立の度合いが高まっていくでしょう。しかし結局は社会の状態に、心が縛られてしまうことになります。

だから、これは社会に関する領域、理想の社会を作る上でのお話であって、内発的であるか自発的であるかということ自体は、この心にとって少し次元が異なったものになります。

もちろん動機の内発性と自発性によって、「この心が受け取るもの」が異なってくるのでナンセンスということはありませんが、そのまま形而上学的領域や心について持ち込むことはできません。

Category:miscellaneous notes 雑記

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