健康保護のために

犯罪者の生理学を考察し始めるや否や、犯罪者と精神病者の間には本質的な区別がない、という避けがたい洞察の前にすでに立つことになる。 曙光 202 序

思考によって生じた嫌な感情、抑圧されたエネルギーが吐出口を求める時、その人の気質が外向的であれば暴力的に、犯罪の方に走り、内向的であれば自傷行為に走る傾向にあります。

そう考えると、犯罪者も精神病患者も元のエネルギーの質としては同じようなものを抱えているという感じになります。

うつ病などにしても、それが一瞬で治ることがあるケースにおいては、一般にイメージされているような何かの処方や施術でというわけではなく、根本の「思考」と「感情」の関係性について、自我が持つ錯覚による倒錯から、ただあるがままの認識にシフトするという感じでの移動の結果になります。

で、結果だけに対処するのが薬などですが、やや進んだところで思考に関するアプローチがあります。

しかしながら、それである程度エネルギーが軽減されることがあっても、形而上学的領域の思考に入ってしまえば、形を変えて元のような思考に復活する可能性は内在しています。

本当は一気に認識をシフトさせる方が根本的で早いのですが、それは外部の人間が働きかけてなんとかなる領域ではありません。

そういうわけで外部の人間が働きかけてまだなんとかなる領域が思考や人と人との関連性についてのアプローチです。

先天性のものや傷口からの感染等々は別として、概ねどのような病気でも、何かしら意識的なものが影響しています。

「病苦」病の苦しみ

疫病と祟り

平安時代などでは、疫病が流行ると「祟りだ」として、やましいことがあればそれに対する「お詫び」のようなことをしていました。

一例として、菅原道真の怨念を鎮めるためにと、天満宮が造られり、早良親王の怨念の影響を恐れ長岡京から平安京へと遷都されたりしたようですが、そういった発想についてもあながち迷信だと鼻で笑う事はできません。

なぜなら、何かやましいことがあってビクビクしているということは常に緊張状態ということになります。

そうなると体が休まらず、抵抗力が落ちます。

ということは、免疫力が低下して疫病の餌食になる可能性が高まるのです。

まあ清めに使われる酒にも塩にも殺菌力があったりするのも面白いところです。それに感染症だけでなく、精神疾患というものもありますからね。

不快感に対し「自分に責任はない」という傲りから起こる妄想

妄想は感情や感覚を思考上の知識でこじつけることから生まれます(妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる)。先に不快な感覚があって、それを思考やイメージで意味づけることで起こると言ったところです。

そう考えると、疫病に対する「祟り」という解釈のみならず、縁起が良い、縁起が悪いという考え方も結局不快感からの妄想的こじつけというふうに捉えることもできます(縁起が良い動物とか悪い動物という発想)。

自我の形成による混乱

さて話が病気についてになりそうになりましたが、意識のエネルギーなどなどについて話を戻しましょう。

よく非行に走ったり自傷行為に走る未成年には「親の愛情が足りない」というようなことが原因だと説明されることがあります。

もし可能であれば未成年の間に開眼すればいいのですが、それはさておき、なぜ親の愛情や人との絆のようなものが暴力を含めた犯罪、自傷と関係があるのかというようなことについて触れていきましょう。

その発端は非常に単純で、自我が形成されていくということは分離の始まりであり、境界線ができていくということです。

自我の形成は分離の始まりであり境界線ができていくということ

3歳までの記憶は記憶されないというようなことを言う人がいますが、それは脳の記憶の関係もあるでしょうが、感覚的には赤ん坊には分離がありません。成長とともに分離が加速していくのです。そして、自分と誰かの境目がはっきりするのがそうした3歳頃ということにはならないでしょうか?

しかしながら正確な年齢は個人差的になんともいえませんが、未成年のうちは完全に自我が完成はしていません。

変な話ですが、小さい時に自分が住んでいるところはどこなのかという質問を色んな人にしたところ、「日本」という人や「京都」という人がいて、場合によっては自分が住んでいる町名がでてきたりと、いろいろな回答がありました。

で、小さい頃の僕の中では、京都と日本の区別がありませんでした。もちろん区別できるまで頭が追いついていないということにはなりますが、それと同じように、自分と家族との境目がかなり薄いのです。

そういうわけで、年齢が若ければ若いほど、自我意識が小さければ小さいほど、自分と自分の周りとの分離が少ない状態になります。

構成要素が欠落しバランスが崩れ混乱し、欠落を何かで埋めようとする

しかしながら、その状態で急にそうした自分の周りとの結びつきに穴が開くと、頭が混乱し始めます。

いわば家族という表現が良いのかどうかはわかりませんが、分離の感覚が少ない分、自分にほど近い存在の集合をもって自分を捉えている状態で、その構成要素が欠落するとバランスが崩れ、頭が混乱し、欠落を何かで埋めざるを得なくなるという状態になります。

そして外界を見渡してみた時に、相対的に正常値の基準を自分に合わせるために犯罪に走ったり、根本的な集合自体を小さいものとするために自傷行為に走るというのが本当のところでしょう。

しかしながらそれは中途半端に自我ができつつ、中途半端に分離感があるからです。

そのような状態でも思考の限界を超えて自我の領域から脱すれば分離自体がありません。

単純に言えば、赤ん坊の頃は世界のすべてを愛し、世界の全てから愛されているような状態です。しかし、そこから一部の人を愛し、一部の人から愛されていると感じるようになります。

分離後の対象の重要度

そして、その時点で自分が快適である状態条件が出来上がります。しかし、何かの拍子にその状態が崩れることで意識のバランスを崩し、何かでバランスを取ろうとするのです。

中途半端に出来上がった「思考」がその原因です。

何かの基準を作り上げ、その基準と現状がどれほど一致しているかということを確認する思考があるはずです。

大人になればなるほど、自我意識が強ければ強いほど、思考発端の感情エネルギーは強くなりますが、ある程度の年齢になった人と未成年との大きな違いは、分離後の対象の重要度です。

大人になるとそれほど何かひとつに固執して熱中することはありません。それほど、重要度に偏りが無くなります。良く言えば執着が少なくなるということですが、悪く言えば何にも熱中できず基本的に無関心だということになります。

それは自我を持ちながらもそれを構成する様々な要素が多岐にわたっているからです。

しかしながら未成年の場合は、その構成要素が大人よりも限定されています。だからこそ、分離はありつつ、比較的分離感が少ない対象である家庭のバランスが崩れると、頭が混乱しやすくなるのです。

だからこそ特に未成年の犯罪者や精神疾患患者の家族を見ると、だいたい家族が原因であることがほとんどです。

大人になっても同様です。

例えば暴力事件の最終的な引き金は、その場の状態、その場にいた誰かの言動になるかもしれませんが、同じ状態でも人の行動は千差万別であり、因果関係をよくよく見ると、根本にあった意識のエネルギーがあったからこそというところを見落としがちです。

そういうわけで、犯罪者がいてもその人個人を責めるわけにはいきません。もっと大きく言えば社会全体にも責任があるというのが本当のところです。

といっても、大人だからと言ってみんな完璧であるとは限りません。

もし未成年等々で家族や大人、社会のせいだと思う人がいたら、次のことを実践してみると良いでしょう。

植物が花を咲かせ種をつけるまで、タネから育ててみよう

誰かのせいにしたい気持ちはわかりますが、その誰かも完璧ではないということを知るために、植物が種をつけるまでタネから育ててみるということをしてみましょう。

「植物には関心がない」とか「そんなことをやっても意味がない」などなど、様々な言い訳を考えるのも結構ですが、世話をされる側で当然だと思っている人も世話をして見る側になってみる、という形でいかがでしょうか?

特に何の植物かは限定しませんが、タネから始められて花を咲かせて種をつけるわかりやすいものが良いでしょう。

それを途中で枯らさずに、種をつけて自然に枯れるまで、世話をしてみましょう。

それは一日で完結するような作業ではありません。

日によっては、水をやるのを忘れたり、水をやりすぎて根が腐ったりということもあるでしょう。

そういう時に、「友達と遊びに行く約束があって時間がなかったから」とか「どれくらい水をやればいいのか知らなかったから」という言い訳は結構ですが、そんな面倒だと思う感情や「知らなかったでは済まされない」というような事柄を受け止めながら世話をしてみましょう。

誰の力も借りずにそれを叶えられた時、何かがわかるかもしれません。そしてその価値はあなただけのためにあります。

健康保護のために 曙光 202

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ