悲惨に耳をふさぐ

他の人たちの悲惨と苦しみのためにわれわれが陰鬱な気持ちになり、われわれ自身の空を雲で覆うのなら、だれが一体この陰鬱の結果を引き受けなければならないのか?まさしくやはり他の人たちである。 曙光 144 序

ある感情が起こった時、その感情を自らが受け入れぬまま人と会うことによって「感情から目をそらす」ということをよくやっている人がいます。

人の暗い話を聞くと、聞いた側までも暗くなってしまいます。ということは、いつも周りにグチグチ言っているような人は、一種の害ということになります。

人から暗い話をされたときに取る対応は、タイトル通り「悲惨に耳をふさぐ」という感じが最も理想的です。

それはひどいという感じではなく、相手に同調して自分まで暗くしてしまわないということを目指すべきです。

感情まで同調してはいけない

相手の話を聞いてもいいですが、感情まで同調してしまっては、こちらも嫌な気分になります。だからこそ、もし話に付き合うのであれば、「相手と同じ感情を味わわないようにする」ことを目指すべきです。

暗い話をされたら、それ以上の明るい空気を出せばいいのです。

相手の暗さに負けているようでは、相手の方が強いということになります。そうではなく、相手がどうあろうと自分は明るくいる、相手を感化しても余裕があるほどに明るくしていれば問題はありません。

相手が墨汁のように暗い感じであっても、自分が海くらいの大きさであれば、相手の暗さに染まることはありません。

同情と共感

気分が暗い人の正論

概して気分が暗い人は暗い考え方を持っており、アイツの底力ということなのか、そういう人たちの考え方・意見は正論のようだったりします。

話が正論ぽいので、相手に引きずられそうになりますが、論理を超えれば論理に打ち勝つことができます。

気分の暗い人の話題というものは、情動、印象が先にあり、そうした不快感を論理で後付けしている、というか、そうした印象に沿う対象を勝手に探してきてしまっているというような面もあります。ということで、別の角度から情動を変化させれば、その論理空間で解決しなくても、気分を明るくすることができるというような構造もあります。

ということで、正論ぽいものがやってきても、論理を超えれば論理に打ち勝つことができるというような感じになります。

と、そこまでいかなくても、すごく単純なことだけ念頭に置いておけば問題ありません。

どのような考え方であっても、自由平等博愛主義をもとにしたような「相手も救わねばならない」という義務はなく、相手の感情の責任は自分にはありません。

そしてそれと同じように自分の感情は自分だけの責任だということと、今自分が何を感じているかこそが全てだということです。

博愛や慈悲を義務化して、それを根拠にすがり根性丸出しで脅迫してくるような人の相手をする必要はありません。

暗い人の暗い話に同調して暗くなってしまうくらいなら、その空気を無視し、多少好みの問題もありますが、その場でごっつええ感じやビジュアルバムなどの名作コントでも爆音で上映しているくらいがちょうどよい、という感じです。

思考の罠

悲惨に耳をふさぐ 曙光 144

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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