神の誠実

全知全能であり、しかも自分の意図がそれから想像されたものによって理解されることを配慮さえしない神、― それは慈悲の神であろうか?数かぎりのない懐疑と疑念を、人類の救済にとって危険なものでないものであるかのように、数千年も長いこと存続させる神、しかも真理をつかみそこねた場合には、再び最もおそろしい結果を約束する神が?真理を持っていて、人類が真理を求めて悲惨に苦しむ状態を観察しうるのは、残酷な神ではないのか?― しかしおそらくそれはやはり慈悲の神であるであろう。― 彼はただ自分をそれ以上にはっきりとは表現することができなかっただけである! 曙光 91 序盤

神の誠実という胡散臭そうなタイトルになっていますが、思考上で考えた場合には、様々な不合理について「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」で触れているような形で「全知全能の神ならなんでそんなことをしているんだ?」ということも思い浮かべるはずです。

完全であるならば「人を殺すことなかれ」なんてな戒律(律法)を作らずともそうしなくていいように作れ、ということです。

そこで以前、活字中毒期に考えた「あること」について再考してみたいと思います。ということで10年以上前に考えたようなことを元に書いていきます。

人格神から「人格」を外す

「まず人格神であるということを脇に置こう」

ということです。

新旧約聖書等々で出てくる神やヒンドゥーの神々、そして日本における八百万神等々はたいてい人格神であるという感じで捉えられています。

ただ、当時の僕はそこから人格を外して捉えてみるのはどうか?ということを思った感じです。

いわばプラトンのイデア論的に全てのイデアを抽象化した概念でありいわば本当の完全、全体です。むしろ、言語が介入するとその言語によって限定が入りますので、そうしたラベリングすら外してみるということです。

しかしながら、何かを想起したとすれば、想起されたもの以外との区別が生じるため、いわば「完全」ではなくなってしまいます。

そのような感じで、その当時、神とは不可知的な完全を示すという意味合いで捉えることにしてみました。

そうなると全知全能であるという意味とイコールにもなりますしね。

人の意識の発端を追うと「不思議」にぶち当たる

自分の思考自体が外界からの情報で形成されているなら、その外界である他人の思考もまた、その人以外の者から形成されたものになります。そうなると人の思考の発端、「出だしはどこなのか?」というような不思議にぶち当たります。

そう考えると、その部分に関して神を当てはめたくなる人がいてもおかしくはありません。

人格神として、また、「この私」が納得できる形で「神の存在」を示せといわれて、示されうるから存在するとかしないとかいうのは、「この私」の基準が元になっています。

そういうことではなくて、ただ単に形而上学的で自我には不可知な領域での方向性、エネルギー、法則、というものを指して神とラベリングするのは別に狂気だとも思いません。

しかしながら、各々の宗教にありがちな、何かの書物に書いてあったからという感じで、その方向性や法則を頭で都合よく解釈し、他人に何かを強制していくのは変だと思っています。

厳密に考えれば、その書物自体の正当性もそれを読む人の信仰心くらいしかありませんし、また、その文言の解釈自体の正当性に関しても、その人の確信くらいしかありませんからね。

「神とは何なのか?」という問い

そういうわけで、そうした実際問題「神とは何なのか?」ということを考えても、自分の出した答えが正解かどうかは、「預言者のようなお告げ」があったとしても、奇跡のようなことがあったとしても、結局自分がどう捉えているかだけの問題になるので、完全な証明にはなりえず、「ただのうわ言」であるとか、「気が狂れた人」と同じだということになる可能性を完全に排除できるわけではないのです。

ということで、「神とは何なのか?」という問いを持ち、それを把握し、その上で何かを決めていこうとするようなことよりも、そうした概念はもちろんのこと、それらの考えが社会で評価されようとも、完全な証明には何の寄与ももたらさないので、他人への説得という要素を排除して、ただ単に自分がどうあるのかを検討するほうが理に適っています。

そう考えると、難しい哲学、決着の着きようのない論争は脇において、事実を観察しながらただどうあれば煩いがなく快くあれるのかに集中するほうが賢明です。

そしてその事実の観察の際に哲学的な思考を使えば良いのです。

すると、例えば「生贄を捧げること」で、その場は快くなったという事実があったとしても、その時点で可能性的には裏側に「生贄を捧げなければ祟られる」というような恐怖心が生まれ、その解決法を繰り返すことでその恐怖心が育み、追々その恐怖心が己を蝕んでいくという方向性が見えるはずです。

「空」でありながら実在するかのように働く機能

プラス要素とマイナス要素

これは哲学的な思考というよりも、何かの行動、もっと言えば現象自体は無属性でありながら、それを思考上で解釈する場合にはプラス要素とマイナス要素が合わせてやってくるというようなこと、つまりたくさんの解釈可能性を同時に検討できるかというようなところです。

彼氏・彼女ができて嬉しい、という反面、その関係性が自分の視野や行動を制限し、また、自分のこと以外で意識が乱れる可能性を作ります。

また、逆に大好きな彼氏・彼女と別れてしまって悲しい、という反面、一種の制限が無くなり、自由を取り戻したという解釈や、自分のこと以外で意識が乱れる可能性が減ったという解釈をすることもできます。

少し意味は違いますが、テーゼに対するアンチテーゼのようなものです。

そこで物事に対して無駄に評価する人はプラス面にのみ着目し、逆にルサンチマン的にデメリット面がよく見えてしまう場合は、マイナス面にだけ意識がフォーカスしているという感じです。

一度そうした面が見えたなら、プラスとマイナスの両方を探りながら無効化できるほどにまで評価を揃えてみましょう。

するともしかすると無属性であることがつかめるかもしれません。そうした評価を与えていたもの、それは単に「自分勝手な都合」による目線であり、その都合は自分が作り上げたものではないということにすら気づけるかもしれません。

それは隠されてはいません。

ただ、誰もそれを見ようとしないというだけです。

神の誠実 曙光 91

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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