信義を重んじて態々ここに来る

「信義を重んじて態々(わざわざ)ここに来る」ということで、接待等々について触れていきましょう。

接待ゴルフという言葉は昔からありますが、全くいやいやというわけでなくとも、本当はそれほど乗り気でもないのに付き合いできているという人たちと遊んで本当に楽しいのか、と小学生の時から思っています。

まあ脳筋体育会系としては、部下や後輩を侍らせている、とか、自分の鶴の一声で、というところで自尊心を回復していたりするのでしょう。

仕事の利害を絡めないと誰も一緒に遊んでくれないということは、それだけ本人に魅力がないということになります。自尊心回復という惨めさもさることながら、そうした「魅力の無さ」の自己暗示すら追加でかけているような気もしてしまいます。

態々義理で来てくれているのであれば相手に気が悪い

僕の感覚としては、「態々義理で来てくれている」と思った時点で、「相手に気が悪いなぁ」と思ってしまい、逆に楽しめなくなります。意識の何割かはその人に向くため、目の前の遊びへの集中が阻害されるからです。それならば独りのほうがいいと思ってしまいます。そういうところが文化系なのかもしれません。

特にそれが役割上部下にあたる人や後輩にあたる人であればさらに「気が悪いなぁ」という気持ちが高まります。

そこには何かしらの好意が含まれていたりもするでしょうし、実利的ではない無形の部分で「一緒に過ごして何かを得よう」という気持ちも含まれていたりするとは思いますが、何かしら自由時間を犠牲にしているようなフシがあるのであれば、どうしても「気が悪いなぁ」と思ってしまいます。

接待をされたら負け

ということで、僕はいつからか「接待された側の負け」ということを思うようになってしまいました。まあ返報性の原理から考えると、心理的な負債を抱えることになるということが関係しているのでしょう。

形式上自分が接待をされている側であっても、相手に気を遣ってもらって自分が喜んでいるというのは一種の負けであり、相手の気分を高めてこそその場にいる価値があるというふうに考えてしまいます。

誰かしらが無理をして相手をしてくれているというのも嫌ですが、とりわけ異性に相手をしてもらうような接待は完全に負けだと思っています。

その根底には2つくらいの要因があります。胴体としては一つですが、一つはお金を払って異性に相手をしてもらうことは負けという意識があること、もう一つは、実際にそうしている人たちを醜く感じてしまうということです。こうした意識は小学生の時からあり、高校生くらいで確定的になりました。

「金銭的負担をしなければ相手にもされない」ということを肯定することになる

端的には、異性と話して「お金をもらうのはこっちだ」というくらいでないと気が済まないという感じです。といっても実際にもらったり請求したことなどもちろんありません。

実質的な経費は別として、「お金を払って」となると、どう考えても「自分は金銭的負担をしなければ相手にもされないのだ」ということを肯定することになります。

そしてさらに、そんなことをしだしたとなれば、少なからず相手の思いを受け入れきれず、交際をお断りしなければならなかった人たちを含めて、歴代の様々な関わりを持った女性陣にも失礼なことになります。

そんな姿を見られようものなら

「もっといい男だと思っていたのに、落ちたな」

と思われてしまいます。そうなる方が嫌です。

というような気持ちが昂じて、男女問わず「接待をされたら負け」ということを思うようになりました。

信義を重んじて態々ここに来る。

「来てくれたからには接待を。行ったとしても接待を」

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