何割かはボツになるという前提

物事の当然の理として「何割かはボツになる」という確率的なものが常に潜んでいます。理論的には100%になりそうなものでも、隠れた要因によって100%にはならないという感じになっていたりします。

何事も何割かはボツになるという前提で物事を進めていると、ボツでも問題がないという感じで気楽に過ごせますし、「またダメだった」と嘆いて動きが止まることによって起こる「同じ確率でも実行した数が少なくなるので成功の数も少なくなる」ということを防ぐことができます。

できれば全て成功という感じでいきたいのはやまやまですが、目に見えないところで何かが起こっている、ということもありますし、どれだけ頑張ってみても隠れた要因によって100%の確率にはならないということになっています。

そんなことを思ったのが高校の物理の時間の時です。母校は教科書を使わない授業が基本なので、例のごとく脱線してカミオカンデやスーパーカミオカンデとニュートリノについての話になりました。まあそうした素粒子関連の話を聞いて「知らぬ間にぶつかったりして反応したりもしているんだなぁ」と思いました。

そしてその上で、

「つまり、通常の機器では観測不可な様々な要因もあるし、量子力学的な不確定性もあるし、日常範囲での想定には沿わないんだろう」

というようなことを思ったりしました。

その時にふと思い返したのですが、例えばプロボウラーでも毎度毎度ストライクではありませんし、もしそうなるのならば根本的に競技が成り立ちません。

まあ計れる範囲でも気温や湿度というものもありますし、細かな話をすれば時間によって太陽との位置関係というものもあります。

そんな中で量子力学的な不確定性までも潜んでいるのだから、まあ100%に近づけることはできるものの無理なものは無理なのだろうということを思ったりしました。

そういうわけなので、どのような事柄でも不確実性からは逃れられず、たいていは「何割かはボツになる」という感じになっているわけです。

そうした前提で物事を進めていると、何かしらうまくいかなかったときでも「ボツ枠のストックにひとつ積み上げたぞ」という気持ちになってきます。

様々な部分での確率と確率を高めるための要因

もちろん構造的には様々な部分での確率というものもありますし、それぞれに確率を高めるための要因が潜んでいます。なので、各セクションの確率を高めることで最終的な結果の確率を高めることもできますが、ある部分を変化させると他の要因に影響を与えるということで、一筋縄にはいかないという場合もよくあります。

例えば、営業における「成約」というものに至るプロセスには、最初の段階の「接点の確保」という要素があります。アポイントの獲得等々、ある程度接点を持つということに対する確率というものもあります。しかし、数を増やしても見込みがあるかどうかという部分はまた別問題となります。そして、そうした活動にはコストがかかるので営利で行っている場合は「最適」を抽出していく必要があります。

また、これには会計年度末といった時期的な要因も確率に影響を与えますし、季節による人の気分というものも影響を与えます。

そんな感じでたくさんの要因がありますが、「プロ」になっていくと、プロ以外では当然にそうなってしまうであろう失敗の確率を大幅に下げることができるようになります。ただ、そこにも「確実」はありません。

ただ面白いのが確率の要素があるものは、実行の回数が多いと本来の確率に近づいていくという性質がある点です。

なので、失敗であろうとも「失敗の方を消費する」ということになるので、その反対の成功の方の確率を高めることにもなるわけです。

「成功確率が低いまま」か「数が少ない」

「何をやってもうまくいかない」と嘆いている人を見ると、根本的な部分において「プロではない一般レベル」となっており、成功確率がかなり低い状態のまま同じことを繰り返しているか、圧倒的に実行の数か少ないかのどちらかのように見えてしまうことがあります。

そして、「物事の完璧さプロの定義」で触れていましたが、勝負事ともなるといくらプロの世界であろうが、論理上「プロ=100%」は矛盾が生じるという感じの構造であることもあります。プロであれば勝てと言われても攻防共にプロならば「必ず」ということは論理上不可能です。

まあある程度の数はうまくいかないというのが当たり前で、それでも一般のそれとは桁違いに成功率が高いという感じがプロという感じになるのでしょう。

調理中や食事中に思うこと

そんな感じでできれば全部が成功であれば良いなぁと思っていてもそれは叶わないという感じになりますし、全てが意味のあるものにになれば良いなぁとは思いつつも「何割かは使わない」ということになったりします。

それをいつも感じるのが調理中や食事中です。

命あったものを食すということになるので、できれば全てを使い切りたいとは思いますが、可食部の関係により一部は必ず捨てることになりますし、食べられる部分であっても切ったついでに一部は捨てる側にくっついてしまったり、包丁に貼り付いたり、フライパンに残ったりするわけです。

容器の底に残ることもありますし、全てをエネルギーとして摂取することはなかなかできません。

そんな感じで調理や食事において、全てに意味を与えたいということは思いますが、それはなかなか叶わないという感じになっています。

考えたことも何割かはボツにすることになる

そんな感じで日常には至るところに何割かはボツになるという構造が潜んでいます。もちろん対象は物理的なものだけでなく、考えたことも対象となります。あれこれ考えたこと、アイデアといったものも何割かはボツにすることになります。

ただ、これもボツになったからと言って、何もしていなかったわけではなく、「ボツ側のストックを積み上げた」という感じになるので、いずれ来る成功を約束するようなものでもあるわけです。

明らかにボツになるとわかっていて量産するというのは少し違うような気もしますが、一応うまくやろうとしてボツになったという感じであれば、それはきっと確率のうちのハズレ側を消費していることになります。

まあハズレ側であってもフィードバックとして活かすことができれば成功確率を上げることに寄与していきます。

なので、とりあえずはどんどんと事を進めるという感じが一番いいでしょう。

名作を手掛けた人たちもかなり多くのボツ作品があったりします。世に出ているのだからまだボツではない方であるはずですが、全体から見たり、名作と評されるものから比較すると明らかに駄作だったりもします。もちろんその奥には完全にボツになって世に出ていないものもあると考えられます。

ただ、駄作的なものがあったとしてもどんどんと試行錯誤を繰り返しているわけなので、「恥をかきたくない」と停止している者とは行動力の面でも雲泥の差があります。質の面もありますが、結局はその回数の差という感じだったりする側面もあるわけです。

情報の収集等々に関しても実行の回数にしても「明らかに少ない」というケースがよくあります。

結局持てる者と持たざる者の差は結構単純で、運ぶ勢いの差という感じだったりもするわけです。

「何割かはボツになる」という前提で過ごしておけば、「よし、次回の確率が上がったぞ」とも思えるわけなので、案がボツ案であろうが、営業活動が成約に至らなかろうが、採用試験で落ちようが、落ち込んで塞ぎ込む必要はないわけです。

運やツキを逃すものは我への執著

ということを考えると、やはり運やツキを逃すものはプライドという感じになるでしょう。「プライドが傷つくから」という理由で物事の運ぶ勢いが無くなってしまうという感じで考えれば、別にオカルト的に考えなくても当然の法則性として考えることもできるわけです。

「何割かはボツになる」ということが当たり前だと思っていれば、「私は持ってるから大丈夫ですよ」とか「ツキがありますからいけますよ」と平気で言えたりします。

「ツキなんてなもんで決められてたまるか」というのはいいですが、そうした事を言う人はたいてい「苦しんで努力した自分」への我執と「そんな私を褒めろ」という承認欲求が潜んでいるだけですから、ロクなことはありません。

言いたい気持ちは一応わかりますが、そうした我執はいわば非自然的であり、確率の見誤りを生じさせる要因にもなるという法則からは逃れることができません。それは別に誰かが決めたわけでもなんでもなく「変えることのできぬ理」の範疇なので、どうしようもありません。

「自分はたまたま環境が良かった」ということを忘れ、「自分は努力したがアイツはしなかった。だから自分は偉いのだ」と体育会系的に傲りに耽っているとどんどんツキが離れていきます。

そういう人は、「私はツイているから大丈夫ですよ」と言うと過剰に反応し、相手が一回でも失敗しようものなら「ほら、どこがツイてるんだ?」と鬼の首を取ったように誇らしげになったりします。

しかし、何事にも確率が潜んでいるということなので、一回で判断する方が「持っていない」ということになります。一回目の失敗等々、短期的に見ればツイていなさそうに見えますが、時間が経過していくと持てる者が持っていること、ツイている人がツイていることが明白に示されていったりします。確率論的に言えば当たり前ですし、その明るさ、前向きさに惹かれて周りがサポートしてくれたりもするので、より確率は上がったりもします。

ところが、持っていない人は、一回の失敗すら恥ずかしいのでそれを実行すらしなかったりします。短期的にはプライドを保てるかもしれませんが、結局そうしていると何も手に入れられないので最終的には持っていない人になってしまいます。

普通に考えても、何かしらがボツとなった時、落ち込んで塞ぎ込んで停止しているか「何割かはボツになる」という前提で、「成功の確率が上がったぞ」とまた、次に取り組みだしているかという「回転率」だけで、実際の「成功回数」にどんどん差が出ていきます。

確率が同じでも、実行する回数が違うのですから、成功の数は桁違いになっていくわけです。そしてそれを長期的に考えた場合、確率は一定でも、ものすごい差になるのは明白です。

さらに実行回数が増えるとフィードバック数も多くなるので、実際の確率も変化していきます。

うまくいっている人とうまくいかない人の差、持てる者と持たざる者の差はそんなところに潜んでいたりもするわけです。

Category:miscellaneous notes 雑記

「何割かはボツになるという前提」への2件のフィードバック

  1. お疲れ様です。短い感想になってしまいますが
    「それが勝てる勝負か否か」見極める事が出来るのがプロかなと個人的には感じております。(それでも100%はありえないのですが)同時にその見極めが出来る様になったのは「過去に実行してきた経験」から育まれてるものだとも感じております。将棋の羽生さんもそれに関連した良いお話を著書でされていました。あと「大数の法則」など色々書きたい事はあるのですが、いかんせん時間が足りないので中途半端な所で失礼させて頂きます。

    補足ですが、先日コメント頂いた「騒音問題」について関連性のある痛ましい事件が発生しました。5chの反応を見るとやはり騒音に悩まされている方々は多いのだなと実感しました。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      (URLはすべて非表示にする方針ですので、掲示いただいたURLも非表示にさせていただいていますが、内容の概要は確認させていただきました)

      「それが勝てる勝負か否か」ということの見極めに関してはおっしゃるとおりだと思います。
      勤め人の頃の営業の師匠(仮)もよくそんなことをおっしゃっていました。そしてその経験値の獲得として、「いけるかなと思っていけなかった、というような経験をたくさん積み重ねろ」というようなことを言っていました。
      そしておっしゃるとおりに「100%はありえない」としても、100%はありえないということを知り、ハズレの方も受け入れ、落ち込むことなく、前には進むというような感じがいいですね。

      そういえば「騒音問題」に関してですが、限度を超えると騒音に関する環境基準を根拠とした不法行為による損害賠償請求という形で対抗することができますので、痛ましい事件となる前にそうした形の対応をするのが良いと思います。
      「話が通じない」という事が起こると燃え上がった感情が暴走を始めます。
      しかし、相手は話が通じない人であっても、社会全体としては話の通じない人ばかりではなく、直接的な注意以外にも有効な手段がたくさんあるということを知り、理性を働かせれば、取り返しのつかないようなことにはならないのではないかと思ったりもします。

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