今夜陰風に乗りて

近年やたらとデータを集めよう集めようとしている世の中の動きがあります。その奥には様々な意図が潜んでおり、理由は一つに限定されるものではありません。

ただ、その原動力になっているもののひとつが、相関関係の発見という面であり、因果関係はつかめなくとも何かしら相関関係がわかればそれはそれで意味があるというような点がデータ収集への固執を生み出しています。

これは直接的な因果関係をつかめなくとも、ある習慣を持っている人々が、その習慣を持っていない人々に比べて、寿命が長いということがわかってくれば、その習慣と寿命の長さとの直接の因果関係がわからなくともその習慣の価値を証明するようなことになるというような考え方です。

その割にひとつの出来事に対してそれを一般化することは愚の骨頂であるというような論調もあります。少数の事例では一般化する根拠としては乏しく、無理に根拠として用いているだけだというような反証の仕方ですね。

これは例えば「ある体育会系に不快な思いをさせられたからといって体育会系はロクでもないと一般化するな」というようなことです。

しかしながら、そうしたことが経験則として「胸板を主張する少し年上の体育会系は、他の人々より高い確率で不快な経験をもたらす」ということなのであれば、社会における一般化とは別に個人に一般化した理論として「避けておいたほうが良さそうだ」ということを胸に秘めておくということに価値が出てきます。個人としての生存確率を上げるための戦略としては有効に機能するはずです。

もちろん外部要因として固定化されているというわけでもなく、自分の側にも要因はあるのだろうという全体を包括した視点は必要になります。その上で、仮定的な一種の原則として「この条件に属する場合は注意せよ」ということを保持しておくことは生存戦略として個人的な価値を帯びてくるわけです。

というような前置きをした後に、地元中の地元の話に移りましょう。

先日、「けふは誰某がよき京入なる」の「安易に京都入は避けた方が無難」において触れていましたが、実家の近くでは、移住してきた人たちがなぜか急死したり発狂したりする傾向にあります。直接的な因果関係はわかりませんが(劇場版ブラックジャックにおける砂漠の花のような感じもしてしまいます)、確率的に急死率が高すぎるだろうと思っています。

直接の要因というものは存在しないのかもしれませんが、弱い要因がいくつもいくつも重なり合うと、結果として現象が起こってしまうということなのかもしれません。

注釈によると「陰風」とは「妖怪や亡霊が乗って来る冥途から吹く風」ということのようです。インターネット上の主要な辞書サイトのどこにもその定義・解説は載っていません。

しかし現代であまり用いられることのない陰風という言葉は、江戸時代においては先の注釈のように捉えられる場合もあったということになります。そのへんが文化的な味わいであり字義的解釈とは異なった印象へのラベリングのリアルとなります。

その陰湿な何か、つまり人を弱らせてしまう様々な目に見えない要因を人々はどのように捉えていたのかというところを知るのは面白いことだと思っています。

そしてそれはある時は非現実的、非科学的とされ、ある時はそれが科学で証明されたりもするのです。

つまり、「馬鹿げている」と捉える人たちは、自分がお勉強した何かに固執し近視眼的になっているだけという場合もよくあるということです。

「馬鹿げていると捉えていた人たちこそバカだった」というようなことは今までの科学の歴史上たくさん事例があります。しかし、「その当時としては仕方がなかった」の一言で済まされていたりもします。

ということに振り回されてしまうこともあるかもしれませんが、社会に承認させようと躍起になることが苦しみを生むだけで、ひとまず今のところ私はそんな感じで捉えているということを胸に秘めておくということは、個人的な生存戦略としては有効に機能するはずです。

しかし、それは未完成の原則であり、例外も存在するというふうにしておいて、相関関係的に曖昧に捉えておくほうが無難です。何かにつけて執著となるとロクなことにはならないですからね。

今夜陰風に乗りて迫りくるカビや花粉。

Category:菊花の約

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