事実が形作っていく社会

無理に新しいことを創出しようと思わなくても、人が求めているものやそれに対応するものは、既に目の前にあることがほとんどだったりします。

「目に入っても見えていない」ということばかりであり、それは時に前提知識や理解のための材料がないということが要因となっていることもありますが、逆に知識偏重の偏見からも生まれたりします。

ツァラトゥストラの副題である「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」みたいな感じで、「誰にでも見えて、ほとんど誰にも見えない」という感じです。

「今ある自分の課題を解決することに適っているか?」ということは、視野を狭める原因となります。もちろん広い意味で「自分に有益か?」というところが軸になるのは当然ですが、具体的であればあるほど、実用性のようなものはありつつも、本質からはズレてしまうということがよく起こったります。

単純には、博打狂いが博打のためのお金を求めるという構造のようであり、「人から借りてでも、博打のためのお金をひとまず手に入れようとする」という構造です。

「根本的にやめればいいのに」ということを言うと逆上するの同じで、そうした狭い視野の中にいる人にとっては、目の前の現象の中にある、様々なヒントが見えてこなかったりします。

「なぜ、そうしたものに手を出すのか?」というような問いを繰り返していけば、必然的に「心安らかであるため」ということにたどり着くはずですが、興奮や経験則、もっというと執著が別のルートを見えなくしてしまうという感じです。

否が応でも社会は、事実が形作っていきます。

遠い未来のことはわからなくても「今の先にある形」くらいは、目の前を見るだけですぐに予測できます。

頼まれて面倒くさいと思ったことや普通に普段楽しんでいることなどを具に観察すれば、需要などすぐにわかりそうなものです。

という中、事実を捻じ曲げるもの、見えなくするものがあります。ひとつは、想像にたやすく執著ですが、もう一つは自信のなさです。そして自信のなさからデータに頼るようになると、さらにデータに振り回されます。

先に朧気な形があり、既に出来上がった事実を元にさらに明確な形にした人、つまり「その事実に気づいて、形にした人」が先行者利益を得ます。

その後に二番煎じ三番煎じで追従する人たちも表れますが、空間の内側にいなかったことにより、事実の本質を掴めず、表面的な現象のみを追いかけて結局形にできない人もたくさんいます。

後から追いかけるというのもいいですが、形だけ真似ても結局は追いつけもしないということが起こる裏側には、表面的な仕組みしか捉えておらず、その奥にある人の意識の方に無頓着であるからという部分が潜んでいます。

資本が体で仕組みが技なら、そうした「意識の理解」は心であるため、心技体の順序の如く当然に追いつけないという感じになります。

「なりたくてなった」というケースよりも、「気づいたらそうなっていた」というケースの方が多く、またその方が他者のニーズに合っているので安定もしています。

その理由は単純で、概ね「なりたくてなった」は我が事だけの都合というケースが多く、「気づいたらそうなっていた」は、人の求めることに対応していった結果だからという感じになります。

人が求めていることに対応していったのだからありがたがられ、当然に需要もあるので収益も安定します。「なりたいからなった」の領域は、自己顕示欲や自分の奮闘の意味付けに執着しやすいというところから、人の求めていることからズレやすいという感じにもなります。

しかしながら、有名人系職種など一部の領域においては、ある程度の枠組みで特殊な需要が存在しているので、成り立っている場合があるという点も見逃してはなりません。

ということで、「本なんか読まなくていい」等々、スポーツ選手や芸能人などの人生論は、経済社会等々においてはあまり役立たないという感じになります。

と、そうした点についてもう少し触れておくと、スポーツや芸事はルール以外に活字の空間をあまり必要としません。しかし、経済社会においては何をするにしても、専門分野以外に、契約や税法や業法、そしてお金の計算など、法律や会計の分野が嫌でも絡んできます。なので、同じように考える方が危険という感じになります。

勤め人の頃、「お客さんに教えてもらいなさい」ということを繰り返し伝えてくれた上司がいます。

「断られても、その理由を教えてもらいなさい」

もちろんお客にも変な人がいるので、全部が全部言うことを聞く必要などはないのですが、参考としていくことはできるわけです。

「『あんたはしつこい』とよく言われた」とその上司は言っていました。

具体的な営業活動でもそうしたことができる中、もっと手前段階の分野ならば、直接的に社会を見渡せば答えとまではいかなくてもヒントは無数にあります。

ある程度のプロともなると、初心者の気持ちがわからなくなったりします。しかし、初心者の躓きを解消することは、一つの需要になります。ということですぐに収益モデルを考える土台につながったりします。

そうした玄人と素人のギャップに気づくこともまた、潜在需要を掘り起こすことができるポイントとなります。

そうしたものは、一種の最適化の領域になりますが、逆に進化の範疇として、まだ仕事となっていないような「新しい空間での出来事」というものが社会を形作っていくことがよくあります。

インターネットによってもたらされた「質問と回答という構造」や「業者間や個人間、業者と個人のマッチング」というものがその代表例でしょう。

しかしながら、そうしたものが通用するのは、母数が多い場合のみという感じになっています。

「特殊な店」が郊外では成り立たず、逆に人口が多い都市部では成り立つのと同じように、インターネットによって対象者が全国まで広がったからこそ収益モデルとして成り立つということになります。

「質問と回答のためのプラットフォーム」を収益化できるレベルにまでもっていくということは、ある程度の数の利用者が必要になります。ということなので、ローカル性の強い旧来のパソコン通信では成り立ち得なかったこともインターネットとブロードバンド、そしてデバイスの普及によって成り立つようになったという感じです。

そうした、比較的最近の事業モデルも、先に趣味レベルで既に事実が起こっており、数の拡大と共に収益化できるほどにまで形作られたという感じになります。

でもそうしたものも、「収益モデルを探すぞ!」という目線で力んでいては見えなくなったりする、という何とも皮肉めいた構造が意識の中にはあります。

それほど資金がない中、「利回りの良い投資先を探すぞ」と意気込むよりも、日常の「常識に煽動された無駄」を削るほうが早いように、刺激から離れ、心を静めている方がいずれにしても結局うまくいくという感じになります。

Category:company management & business 会社経営と商い

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