デマを飛ばすんじゃない

「デマを飛ばすんじゃない!」と言いたくなるような情報はたくさんあります。そうしたデマ情報は昔から絶えませんが、近年では様々な情報への到達が容易になっているので、デマと出くわす確率は格段に上がっています。

自信のなさから来ているのか、近年では大学による研究結果等々権威性というものを盾にしたような説得が多い傾向にあります。しかしながらその実、実験と称しつつも雑誌程度のアンケート結果だったり、複数要因のうちの一つにしか着目していない等々、根本的に結論の解釈の仕方を間違っているという感じで思ってしまうようなものもたくさんあります。

心理学の研究における「実験」なども、間違いとは言いませんが根本から仮説の立て方等々が異常な場合があります(「は?」となる心理学者たち)。

そのような感じで、何かしらのデータ自体は正しいのかもしれませんが、そこから導かれる結論において「解釈の仕方が異常なのではないか?」思ってしまうようなものも結構あります。

汗に関する研究結果

まあ例えば、汗をかくことは健康にプラスというわけではないというようなことを言う人がいます。で、実験として何をしたかと言うと、汗の成分を分析して毒素が含まれているかどうかを調べたと言うような感じで、あまり含有されていないので、汗は解毒にならないという感じで結論づけていました。

しかしながら、汗をかくという場合、どういうことで汗が出たかということも問題になりますが、水分を排出しているだけではなく、皮脂も分泌していたりします。また、「いくら運動で汗をかいても」という論調ですが、運動自体で血流が良くなったりするという部分はあります。

ということで、汗自体にはそれほど毒素排出の効果はないかもしれませんが、それにかなり関連する要因として、様々な現象が起こっているわけです。

という中、三流ライターが記事を書くと「運動して汗をかいてもデトックスにはならない」という結論を書きます。絶望的です。

ズレた解釈によって何かしらの情報を社会に吐き出し、それを見た消費者が流言蜚語を生み出すという様は狂気に映ります。

汗に関する個人感覚

個人的には、大峰山に登った時に、おそらく2、3リットルレベルで汗をかきましたが、たった一日の動きであるにも関わらず、その後1ヶ月半くらいは体調が絶好調でした。

また、普段あまり体を動かさない中、1週間連続で運動をすると、頭から黄色い皮脂を含んだ脂汗が大量に出ます。だいたい1週間くらいで、さらさらになります。その頃には、頭痛も起こらなくなりますし、目も劇的に回復していたりします。

サンプルの具体的特性が不明瞭

で、ふと思いましたが、そうした汗の分析においても、普段から汗を流している人に研究対象のサンプルとして協力してもらっているのではないか、と思ったりもします。

すなわち、基本的に健康体である人の汗を分析しているにとどまり、普段デスクワークをしている人が、久しぶりに長時間運動をした時のデータは無いのではないか、ということです。

論文を読んだわけでも学者本人に聞いたわけでもないので、その詳細は知りませんが、そんな感じで当てにならない調べ方をしている場合も考えられるわけです(凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない)。

ということを前提として、記事を書いてくれればいいのですが、企業が運営しているとは言え、所詮タイトル釣りで広告収入が欲しい人たちなので、その実際はどうでもいいというのが本音というところなのでしょう。

次は何の布石?

そのような感じで、それほど重大ではなさそうな分野においても、デマ的な情報で溢れていますが、「諸手を挙げて賛成できそうな話」も信用はなりません。

環境や人道の問題において、「素晴らしい目標の設定だ」と思えるようなものも、結局後の利権のための布石にしか過ぎないことが多々あるからです。

二酸化炭素排出権が「売り物」に

環境問題、地球温暖化防止等々で踊らせつつ、結局二酸化炭素排出権が売り物になりました。

「みんなで抑制しましょう」という会議を開いて勝手に適当に決めた数字が後に根拠となり、「超過しそうなら、余裕のあるところにお金を出して、権利を買え」という構造になっているわけです。まず、元の数字が曖昧です。

小学生が考えても

「バカではないか?」

と思えるようなことを大人が平気でやっているわけです。

人の良心に訴えてマネーゲームを繰り広げる跳梁跋扈の代表例です。

何かを義務化して「資産」を作る

ということで、持続可能な云々も結局は何かしらの交渉事で相手を譲歩させたり、何かを義務化させた上で優遇措置を受けている側が権利を売るためにと、あれこれ「言い返せないような素晴らしい目標」を提案して、元となる無形資産を作り出そうとしているのではないか、と勘繰ってしまいます。

完全なデマも含まれつつ、多少誇張した情報が出てきたり、都合の悪いものは隠したり、権威を利用して「根拠なし」と言い切ったりして、何かしらの都合を叶えようとしているように映ります。まあ前科持ちみたいなものですから、疑うなと言う方が無理があります。

ふと、その手のやり方を見聞きすると、中学生の時に無理やり制定させられた「人権宣言」を思い出したりします(「愛は平等にする。」)。

事あるごとに「みんなで決めた人権宣言やろ」などと、迫ってくる義務教育の方々とあまり変わりはないような印象があります。

なので、鼻で笑いつつ「まともに相手をしない」というくらいがちょうど良いという感じになります。

笑う月(一覧)


感情に訴えかけたり科学的な正しさを示しながら都合の悪い部分を隠すといった情報のあり方によって、歪んだ解釈のみを埋め込まれてしまうというリスクがあります。そうした情報と関連した「心を悪徳から、精神を誤謬から守ること」について。

情報化社会における「情報の遮断」と「視点の教育」

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