「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処

「キャー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を絶叫する子供が激増してきました。

家の前、飲食店、スーパーなどの小売店、そして温泉ですら、「無線のチューニング」並みの「キャー!」「きゃあん!」という子供の奇声が聞こえてきます。これは完全に公害です。

最初に言っておきますが、「うえーん」や「えーん」「ぎゃあああ」といったように、怪我をして泣いているとか、赤ん坊が泣いているという場合の声ではありません。

だいたい女の子の方に多いですが、幼稚園児、保育園児といった小学校就学前の子から小学校中学年くらいまでの間の子供が叫ぶ「キャー!」「きゃあん!」という謎の高周波についてです。超音波と言ってもいいでしょう。

「何が悪いのかわかっていない」

ということなので、

哲学者風に

「それが犯罪であると認識し、故意に犯罪を犯した者は反省する動機があるが、何が悪いのかわからずに犯罪を犯した者は反省する動機が存在しないためより重罪である」

ということで爆音の奇声について書いていきます。

法的には「知っていながらそれを飛び越えてくる」ということが悪意あることという感じになっており「わざとやった場合の方が悪い」ということになっていますが、哲学・倫理学の領域では「反省する動機がない場合こそ重罰に処するべきである」という考え方もあります。

まあいずれにしても、「反省する動機」という意味では、故意にやった場合でも、現状は抑止力が足りなかったということにもなるので、「より強い反省する動機」を与えるという方向で考えることができます。

あの手の子供の奇声は理性を超え本能に直接的に働きかけてくるので、どうしようもありません。「暑い、寒い」と同タイプの不快感です。そういうわけで、まさにこの子供の奇声は、怨憎会苦の最たるものであり、徹底して排除していかねばなりません。

子供の奇声

まず子供の奇声について、齟齬がないようにその特性について触れていきましょう。

無邪気の危険」でも触れていましたが、このタイプの奇声は「うああああ」というようなタイプのものではありません。

ミュージックステーションにジャニーズが登場した時に入る歓声に近いような高周波音です。

「キャー!」「キャアン!」というような、嬉し楽し的な奇声であったり何かの驚愕を表すような声です。黄色い声と言われるようなものと同じタイプのやつです。

自分を可愛いと思って発するような「今リア充です」的な感じのアピールで奇声を発することが多いでしょう。

僕はこの音が、発泡スチロールをスリスリしているような音レベルに嫌いであり、聞こえた瞬間、思考を飛び越えてアドレナリンが爆発します。

怪我をして痛いとか、恐くて泣いているとか、そういう時の声ではありません。

再度誤解を招かないように書いておきますが、赤ん坊の鳴き声には何の問題もありません。それで怒ったことは一度もありませんし、「親御さんも気にしなくていいのになぁ」とすら思っています。

しかし、子供の奇声はそれとは別物です。

Dr.スランプアラレちゃんの「キーン」を1オクターブ上げたような高周波で、走りながら「きゃーーーーー!」などと叫んでいたり、保護者に振り向いてもらおうと思っているのか「きー!」「きゃん!」「きゃーん!」などと絶叫しています。

そのほとんどが、惣流・アスカ・ラングレー並みの「私を見て!」とか「私ってかわいい♡」というレベルの目的しか持っていません。

「きゃー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を絶叫する子供が激増してきたということですが、僕が小さい頃はどうだったのかを母に聞いてみると、「そんな声は出したことがない」ということでしたし、小学校の同級生においてもそんな奇声をあげている同級生がいたことは一人として記憶していません。

だから本当に「最近増えてきた」という感じです。

すべてが台無し

ここ5年から10年でこの手の奇声が激増しました。

家の前、飲食店などでこの声がするとすべてが台無しです。

以前、飲食店で子連れで子供を含め20人位の団体があとから入ってきて店内で「キャー!」と絶叫しだしました。

そうした子どもたちを保護者は無視。

店員も無視。

そういうわけで、まだ料理も出てきていなかったので、帰ることにしました。

食事のときには、料理に対して意識を集中するということにしているからです。もちろん、保護者、店員には説教をしておきました。

そういうわけで、そうした客層のいる店には一切行かなくなりました。店員すらも「何が悪いのかわかっていない」というケースが多いですし、毎度毎度面倒だからです。

個人的な印象ですが、他府県に行った時は結構奇声との遭遇率がマシであるような気がしています。京都市内、特に京都の洛外が一番ひどいという印象を持っています。おそらく新興住宅地のようなものができているような場所において増えてきている傾向にあるのでしょう。

「元気なことはいいこと」←君たちはね

まあ僕はこの手の奇声に遭遇すると、その次の瞬間に説教をしているわけですが、世の中ではそうした奇声を発する子供の保護者からの言い分として「元気なことはいいことだ」というような声があるそうです。

僕は直接言われたことはありませんが、そうしたことをいう保護者は頭がおかしいと思っています。

なぜなら「元気でいい」のは、その人達だけだからです。

「元気で結構なことだ」と喜ぶのはその人達だけで、周りの人にしてみるとたまったものではありません。

稀に「あまりそうしたことで子供を制限すると、臆病な大人になる」などという人がいますが、何も外で会話すらするなとか、遊ぶなと言っているわけではありません。

むしろどんどん話せ、どんどん遊べとすら思っています。

別に飲食店で大声で話していても、周りの人の迷惑にならないのならそれは構いません。

「キャー!」とか「きゃあん!」というような謎の奇声をあげるなということです。

それすらも良いというのであれば、「男女が絡み合っている動画の音声を自宅前で爆音で流してもいいのか?」ということになります。

どうせ「キャー!」を許容したところで、「たくや」や「まさひろ」と書かれたようなハート型のうちわを持って絶叫するような大人にしかならないというのは目に見えています。

責任能力がないものがやったことなら全てが許されるのか?

勿体ぶった振る舞いをしない」などで触れていますが、子供がやったことだからとか障害者がやったことだからといって全てが許されるというわけではありません。法律上も、刑事上の責任などは出てこないかもしれませんが、民事上では発生したりしますし、伝家の宝刀のように振りかざせるものではないはずです。

例えば精神に障害を持つ人が錯乱し、楽しそうに通行人にラリアットをして突き進んでいったとしましょう。

それを「元気があっていいことじゃないか」と言っているのと同じです。

子供の奇声は気が狂いそうなほどの攻撃力を持っています。

しかし「元気なことはいいこと」などと言っている人たちは、もしかすると聴覚に障害があったりするのではないかと思います。人によっては聴こえる周波数帯の幅が違うので、高音域は聞こえていないのではないか、ということです。

いいえおそらく意識の中で遮蔽が働いているのです。

「自分に都合の悪いことだから見えないように、そして聞こえないように遮蔽効果が働いている」という感じです。

まあ外ででもあれだけ「キャー!」と絶叫しているので、その手の絶叫には慣れているのでしょう。自らは家の中など四六時中奇声を聞いているので慣れているといったところです。

しかしその人達が慣れていて気にならないのならばそれでいいのでしょうか?

家庭内暴力に慣れている人が、「殴られたくらいで・・・」と言っているのとあまり変わりません。

世の中では、子供がやったこと、障害者がやったこと、痴呆の高齢者がやったことなら仕方ないということを平気で言う人達もいますが、そうして言い逃れをしながら、しっかりと痴呆の親から遺産を相続したりしているのです。

だから責任能力がないものがやったことなら全てが許されるということはありえません。責任が取れるからです。

奇声に対して叱るとそれを無視する保護者すらいます。

そうした人たちは知能に障害がありますから、何を言っても仕方ないので、子供に恐怖を与えることにしてます。

バカに話は通じないので、バカには恐怖で調教するしか無いということになります。

「条件づけを行うしかない」

ということです。

謝って欲しいわけではなく、今後起こらないようにして欲しい

家が通学路沿いにあるため、「キャー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を叫ぶ子供たちの絶叫マーチが家の前で繰り広げられることがあります。

近所に新築が建ち始めた時にセットバックされ、車は来ないもののある程度広い道になったため、格好の絶叫スポットとなってしまいました。

朝なら朝で「私には静かに起きる権利もないのか」と思ってきますし、夕方なら「落ち着いて会話する権利もないのか」と思ってきます。

飲食店なら「料理を味わう権利もないのか」と思ってきますし、温泉なら「温泉でやすらぐ権利もないのか」と思ってきます。

しかし、僕はそうした時に「堪え忍ぶ」ということはしません。

いつでもどこでも平気で叱りますからご安心ください。

この一年でおそらく50人位には「報復をする気が無くなるほどの恐怖」を与えてきました。

反省する動機を与えるためです。

ここで勘違いが生じるといけないのであえて書いておきますが、僕は謝って欲しいわけではなく、今後起こらないようにして欲しいということを思っているだけだったりします。

「僕を怒らせたことについて、自尊心回復のために謝って欲しい」

というものではありません。

「もう二度と『キャー!』といったような奇声を聞かせるな!」

ということです。

いくら指導しようが、「奇声をあげる子供を悪いと思っていない『知的な障害を持つ保護者』」には話が通じず、下手をすると無視をしてきたりもしますので、そうした状況においては恐怖を与えるしかありません。

一度限りの出来事であれば去ればいいだけですが、近所で起こることであり、再発性があるのならたまったものではないからです。

キャーと叫ぶ子供の奇声の原因

さて、長々とキャーと叫ぶ子供の奇声についての怒りの面についての話が続きましたが、次にこうした「きー!」「きゅあー!」「キュアン!」という奇声の原因について考えてみましょう。

それはだいたい、始まりは親の愛情の獲得を欲して叫びだしたというのが本当のところであり、その後、いたるところでの自己顕示欲の表れとして「人に意識を向けてもらう」ということの解決策としての機能を持つようになったという感じになるでしょう。

そしてさらに「絶叫することの快感」を覚えてしまったということになります。

愛への渇望

まずは、最近説教した「スーパーでの出来事」について触れてみましょう。

スーパーの店内で「キャー!」と絶叫している子どもたちがいました。もちろん保護者として両親ともが店内にいます。

しかし、彼らは奇声をあげる子供を完全に無視です。

それどころか、父母とも「ブラック企業勤め臭」がしており、気力がほとんど残っていないような状況でフラフラで買い物をしていました。

つまり、気に留める気力すら無いという感じなのでしょう。

絶叫した直後に両親の方に顔が向いていたので、完全に愛への渇望です。

しかし許しはしません。

なぜならこのままでは「反省する動機がない」からです。

今後同じスーパーで遭遇することも考えられますし、二度と奇声は聞きたくないからです。

そういう時に普通は親に対して怒ったりするかもしれませんが、僕は子供に直接言います。なぜなら、保護者に言ったところで、その人達も理解していないのだから、保護者から間接的に教育してもらうということは絶望的だからです。

自分の行動のどの部分がおかしいのかを本人はわかっていないので、その行動を起こした瞬間に調教します。

まあ核家族化して気力体力が足りないというのはわかりますが、だからといって子供の奇声を野放しにしてよいということにはなりません。

また、以前実家の前で「奇声ラッシュ」が起こったことがありました。

その時にももちろんキレたわけですが、その直前に一瞬観察すると、奇声を上げている子どもたちは、奇声をあげた直後「会話をする保護者たち」の方を見ているのですが、当の保護者側は子どもたちを一切見ていません。

そういうわけで奇声ラッシュが起こりました。

キレてからというもの、実家の近くに引っ越してきた人やその友人達は、僕を無視するようになりましたが、それで構いません。

自分たちが正しいというのならば、僕にキレ返してみればいいのです。

もしキレ返してきたならば、その奇声を録音して、鼓膜が破れるレベルで聞かせてあげます。

それくらいの調教が必要なのです。

反省する動機がないのですから。

自己顕示欲

さて、次に自己顕示欲について触れてみましょう。

稀に子供が「きゃあん!」と絶叫しているにもかかわらず、その声で周りの人がその集団に注目すると「ほら、オレたち理想のお父さんお母さんやってるぜ」的に誇らしげにするB層がいます。

絶叫によって周りから注目が集まることをむしろ誉れに思っているという絶望ですが、そうした保護者のもとで育った「奇声をあげる子供」は、むしろ「きゃー!」と叫ぶことはいいことなのだ、というふうに学習していきます。

はっきり言えば、これは暴走族の暴走行為と同じです。

そうして学習が完成した子供は、叫んで人に注目されることが良いことだと思うので、所構わず奇声をあげるようになります。

これが「私を見て!」「私かわいい♡」というような現象が起こるまでの因果関係です。

ただの自己顕示欲のために奇声を聞かされる人たちのことを考えてみましょう。

それで無視をすると、次は「愛への渇望」です。

だから、奇声を発する事自体に対しての調教が必要です。

慰めと快感

最後になりますが、「きゃー!」というような、子供の奇声には快感を欲してという感じで自らへの慰め要素があると思っています。

人は大きな声を出すと、思考が止まり、思考が止まると悩みによる不快感がとりあえずは停止します。

以前、ある本の中で自己啓発セミナーについて書いてあって、その中の課題として「ある文章を暗記して、大声で叫びながらその文章を話す」というものがありました。

結局オチとしては、大声で話すと思考が止まるので、文章を思い出せず、文章を思い出そうとすると声が小さくなるということで、その課題はクリアできないような仕組みになっていたと言うような感じです。

そこから考えられるのは、大声を出すと思考が止まるということをもって、不安感や不快感を解消したいというような意図があるのではないかということです。

某ブラック企業でもその社員研修で「絶叫する」というものがあります。

「大声を出してプライドを捨てろ!」

というようなものですが、そうすることで、精神状態が変わるということになるのでしょう。

そうして「スッキリする」というのはいいですが、奇声をあげる場所は、カラオケでも公園でも海辺でもありません。

他人の家の前、飲食店、スーパーなどなど、叫ぶためにあるような場所ではないところで絶叫しているのです。

再度書いておきますが「生きるために必要な叫び」について言っているのではありません。

自己顕示欲や快楽のための行為である「きゃー!」とか「きゃあん!」といった「奇声の絶叫」は公害だということを言っているにすぎません。

「キャー!」という奇声への対処

さて、それでは最近行った「キャー!」という奇声への対処について触れておきます。

それは非常に単純で、近所の小学校に通報したという感じです。

一応毎度毎度、叱ることにはしていますが、小学生は毎年毎年1学年が入れ替わります。そういうわけで、毎年登場する奇声をあげる子供への対処が面倒なので、小学校に連絡をしてみました。

もちろん小学校の教員の人たちにすべての責任があるわけではありませんが、小学校からの帰り道で起こっていることなので、一応相談してみたという感じです。

「住所を教えておきますから、保護者から文句が出たら別に100人でも1000人でも来てもらっていいですよ」

といってみました。

「一番権限のある人を出してください。教頭か校長ですね。どちらかの人を出してください」

「いま外出しておりまして」

「そういう嘘はいいですから。出しなさい」

「いいえ。本当におりませんので、教務主任たちで対応させていただきます」

すると、特に頼んでもいないのですが、教員が数人で我が家までやってきました。

で、「別に先生たちが謝る必要はありません。奇声をあげるのをやめさせてほしいというだけです。

本来は本人や保護者に言うべきですが、どこの家に言いにいったらいいかわからないのと、大人数を一気に指導して欲しいという旨であなた達に連絡をしたというだけですから」

「今日は下校途中に子どもたちの興味をそそるようなものが落ちていたようで…」

「ですから、今日起こったことについての弁明などは必要ありません。

なんなら、費用を出すかこちらで作りますから、保護者あての配布物を配ってください」

「いえ、教員側でなんとか対応させていただきます。これも教育として必要なことだと思っておりますので」

そんな感じで話をしていると、その日は、下校ルートに先生が立って、奇声をあげるたびに指導をしてくれたりしました。

その日の晩、教頭がわざわざ我が家にやってきました。

「いま一学年が修学旅行中ですので、帰りしだい全校集会を開いて指導させていただきます」

「そうですか。それはどうもありがとうございます。しかし、おそらく本人たちは『何が悪いのかわかっていない』のだと思います。奇声や大声といっても、どの声のことなのかもわかっていないかもしれません。

そしてそれは無意識から起きる行動なので、自覚がないということがほとんどでしょう。

だから、良いとか悪いとか言う点だけでなく『無意識に起こることを意識に上げる』ということを指導してください」

ほとんど期待はしていなかったにもかかわらず、的確な対応をしてくれました。

「意外と義務教育も捨てたもんじゃないなぁ」と思いつつ、「だったら最初から何とかしておけばいいのに」という気持ちも起こりました。

といっても入学したての子どもたちのことについては、先生たちとしても関わりが最近のことなのでどうしようもないのかもしれません。

まあ、一気に改善するということができなくても、少しずつでもこうした音声公害が収まっていけばいいと思っています。

根本は「反省する動機がない」というところにあるので、その動機が少しでも起こったのなら、少なからず改善はしていくでしょう。

直接体験を通じて諭す

子供の奇声への対応として、気を紛らわせる何かを差し出せばいいなどというような人もいるようですが、スーパーなどにおいては品物を見ながら、そして道端では友達と楽しく遊びながら「キャー!」と叫んでいます。ということで、何の説得力もありません。

問題は「何が悪いのかがわかっていない」ということであるはずですが、そうした人たちは、叱らない教育などといって結局相手に調子を乗らせるようなことしかしません。

奇声を発する子供としては、何が問題であるのかはわかっていないはずですし、むしろ叫んだ時に「元気だなぁ」などと声をかけられたことや自分が叫ぶことで周りの人が注目し、お父さんやお母さんの「今俺達理想の親をやってるのをみんなに見られてるよ」という自己顕示欲が満たされたことなどが嬉しくて、下手をすれば「奇声を発するのはいいことだ」と思って発している可能性だってあります。

しかし、人の家の前であれば、病気で寝ている人もいるかもしれませんし、仕事をしている人だっているかもしれません。静かであることが好ましい公共の場、そして食事の場などで奇声を発することは、誰かに迷惑をかける事になる、ということを教えてあげねばなりません。

「キャー!」「きゃあん!」がどういうことかを教えてみる

そういうわけなので、我が家の前で小学生などが奇声を発した場合、たいてい外に出て直接の体験を通じた説教をしています。

それはすごく簡単で、「いま叫んだの誰?」と聞いてみます。

すると「私じゃないです」などと嘘をつく子が結構いるのですが、それはさておいて、「さっきさ、『きゃあん!』って叫んだの誰かな?」ともう一度聞いてみます。

なるべく甲高い声で爆音でです。

すると、全員がビクッとします。

で、その瞬間に「ほら、いまビクッとしたでしょ?そんな感じでこの周りに住んでる人たちは急にビクッとしなきゃならなくなるんだ」

と言ってみます。

で、相手が小学生なら

「楽しくて気づいていないだけかもしれないけどさ、例えばテストで自分の名前書こうと思った時にびっくりしたら字がうまく書けなくなったりするでしょ?

ご飯食べてるときならお箸を落としてしまうかもしれない。

それでこの近くではお仕事をしてる人とか体がしんどくて休んでる人がいるかもしれないよね?

君たちが今ビクッとしたみたいに、この近くの人もビクッとしちゃうんだ。

だから学校とか大きな公園とかでやってね。そうして大きな声を出すとと困る人達がいるということを考えてみてね。

帰り道に楽しく帰るのはいいよ。友だちと仲良く遊びながら楽しく帰ろう」

といった感じで諭してみます。

すると体験を通じてなのでどんな子どもでも理解してくれます。

その年齢になるまで、奇声を問題だと思ってこなかった親たち、問題だとわかりつつも対処できなかった人たちに期待することはありません。

相手が小さな子供であっても、立派な一つの人格を持っているということを忘れずにいれば必ず伝わります。

伝わらないのであれば、どうすれば伝わるかを考えればいいのです。


子供の奇声を筆頭に、被害を受けている側のことを棚に上げ、「子供のしたことだから仕方がない」という論調がありますが、それは法的には各人の主観や仲間内の意見で決まることではなく、判例を根拠とした「受忍限度」という部分が深く関わってきます。また、単発の出来事なのか、日常的に繰り返されていることなのかといった点や、いわゆるしつけ等の教育や近隣に対する配慮等「回避可能性」がどの程度であるかが争点となります。

類似ケースとして近隣住民による足音や振動といった騒音に関する問題があります。そこで話が通じない相手に対する対処、居直りにも似た対応に対する対抗策や判例上の「受忍限度」を元とした法的解釈を記してみました。

騒音という意味では、類似ケースになると思いますのでご参考ください。

足音や振動など隣の家の騒音への対処

Category:miscellaneous notes 雑記

「「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処」への8件のフィードバック

  1. うちの近所のキ○ガイも是非黙らせて欲しいですね。
    いつも窓全開カーテンもしないで発狂させ放題、人の敷地に入り注意すると逆恨み、親は路上駐車を繰り返しゴミもそこら辺にポイ捨て。(隠し防犯カメラの映像)

    1. 窓全開、路上駐車…と、なんだか騒音問題が生じている我が家の隣の人のままのようです。
      小学校への通報や子供相手のお話は、通学路で不特定の人々が相手だったからという感じですが、「話が通じない特定の相手」の場合は、事実的証拠を積み上げて民事上、刑事上、行政上の制裁を検討してみても良いと思いますよ。話が通じないのですから。
      あくまで一般論ですが、日常的な奇声や足音などの騒音に関しては、環境基本法16条と環境省の告示を基準として騒音値を測り、民法709条によって不法行為による損害賠償を訴えることなどができます。不法投棄なら刑事事件ですし、路上駐車については、公道であれば道路交通法上の反則になるので警察に通報することができます(なお、私道なら損害賠償を請求することができます)。
      具体的なところについては弁護士さんなどにご相談ください。

  2. 昔もいたという人も多いですが昔は勿論大声で騒ぐ子とかはいますがあのキャーッって奇声を上げる子って小さい子はともかく小学生だとまずいなかったと思います。
    時代の移り変わりとされていますがそうではなく全面的に親の教育のせいだと感じます。
    勿論中には支援学級の子とかもいるのでそういう子はしょうがない所もありますが。
    叱らない教育は結構ですが人に迷惑を掛けても叱らない非常識な親は昔よりもはるかに増えているとつくづく感じます。
    自分もまだ40手前ですが自分が子供の時でもそんな事すればげんこつやらきついお叱りでしたし周りもそれが普通でしたけどね・・・
    これからどうなっていってしまうのかと思ってしまいます。

    1. 昔も少なからずいたと思いますが、感覚的には出くわす回数が多いと感じています。
      要因としては、核家族化をはじめとする地域コミュニティの弱体化と、デジタルデバイスだと思っています。
      お話いただいた「きついお叱り」が無いのは地域コミュニティの弱体化の象徴だと思います。
      地域コミュニティが弱体化すると、地域の構成員同士の関係性が薄いので、「共通認識」がなく、トラブルの際は共通項としての法律などを持ち出さねばならないという状態になるので、注意するという行為にも緊張が走ります。
      なので、注意という行動が抑制されます。
      結果、野放しになるという流れが生じているような気がします。
      あと、最近気づきましたが、ドラマなどで意図的に奇声のような声を出しているという場面があります。それは概ねヒロインがピンチでヒーローに助けを呼ぶというシーンです。
      なので、その類の声を出せばヒーローがやってくるという関連付けのような学習をした上で、スマートフォンなどに夢中な保護者の関心を惹くという意図から、奇声の癖がついていっているような気がしました。

      そして日和見菌のようなもので、一定数そうした人がいると、それになびき、学習し、爆発的に数が増えるという形になっているのでしょう、

      「この場所にいるのは自分や自分の身の周りの人だけではない」という広い視野を持つことを始め、「全体を包括する視点からの思考」が養われないので、学習の面でも一定以上のレベルの学問領域になると苦労するようになると思います。

      感情的で理由の説明のない指導は萎縮をもたらすというのはわかりますが、歪んだ「叱らない教育」は、概念としての「社会」というものを捉える能力や様々な「何故なのか?」を考える機会を奪うことになるとも考えることができます。

    2. 親の教育というより昔に比べて外で遊ぶ機会が少なくエネルギーがありあまっているのでしょう。
      あと個体差もあります。耳が少し聞こえにくいとか、発達障害かもしれません。
      うちの下の子♀もキンキン声なので声が大きいと注意しますが、生まれた直後に助産師さんからこの子は声が大きすぎる!と言われたので生まれつきそういう子なんだと思います。
      声の大きさについては本人が音量1のつもりでも周囲には音量10くらいに聞こえているということを伝えています。
      しかしどうにも気分次第でコントロールできるものでもないらしく奇声に近い声をだします。近くにいたら口をふさいで静かにしなさい!と言います。
      小学生になり落ち着くかどうかはわかりませんが、大人になってからもこの特性は他者を不快にするものであるため苦労するだろうな、と悩んでいます。

      1. 物理的で身体を操作する遊びが減少してエネルギーがありあまっているという点はあるでしょう。
        しかしながら、先天的な要因自体を持つ方々は昔からいて、それらの方々は、教育を含めた環境要因によって抑制されていたため、旧来と比較して増加したような印象があるのだと思います。
        近くの保育園では、そうした障害を理由に弁解してきたことがありますが、伝家の宝刀のように免罪符としてそうした理由を持ち出すことは、かつて、その障害を持ちながら、感情の爆発や奇声を抑制して社会に適応した方々を侮蔑することにもなります。
        教育の猶予に関しては正当性があっても、一律に「仕方がないことである」と、免罪符として使うことはできません。
        そうした先天的特性は、現代に急に現れたものではないため、教育のみならず環境要因が大きいと思います。
        この環境要因は、もちろん親のみに依存することではありません。関係性の強さに応じる形にはなりますが、社会の構成員全てに関わっています。

        論理的な理解と情動のコントロールが、まだうまくいっていない状態だと思いますが、その方の気質に合わせて、あらゆるアプローチで伝えていけば、必ず理解できると思います。
        生命保存レベルを超えた意識的領域においては、欲が生じればそれを満たす、怒りが生じればそれを解消するという方向ではなく、そうしたエネルギーが生じたときには、力を抜き、呼吸を整え、「頭付近で浮ついているもの」を腹に落とすと落ち着きます。

  3. そこが難しい所ですよね。
    勿論間を上手く取り叱るべき時に叱るのがベストではあるのですが、
    それを完璧ではなくてもある程度できる親ならばああはならない為親自身も考える力があまりない親や諦めてしまう親が増えたと思います。
    その親たちをただ批判したいと言う意味ではなく、恐らくその人達も親や周りの人間からそういう出来事が起きた時に注意を受けていないのが原因かと思います。
    まさに仰っていた地域コミュニティの弱体化も間違いなく原因の一つだと思います。
    後はドラマもですが最近の幼児向けアニメも奇声を上げるシーンが意外とあります。
    ドラえもんとかではなくもっと幼児向けのアニメですね。
    親以外から未就学児が受ける教育はそういうものも大きく影響する為そこにも原因があると思われます。
    社会全体としてそういう場で叱られる体験がなく考えた事がない親が増えた結果なのかもしれませんね。
    その結果そういうドラマやアニメも生まれているのかと。
    ただだからこそ理解してもらう事が非常に難しい事でもあると思います。
    社会全体として少子化の影響もあり子供に注意するのがいけなくなっている風潮も背景にありますが、
    それでもいけない事はいけないと叱られると言う形でもそうではない形だとしても子供も親も理解出来るようになることがベストなんですけどね。
    長々と長文失礼致しました。

    1. コメントどうもありがとうございます。少子化が事実であってもそれを理由に「優遇」したりする必要ははどこにもありませんし、周りが気を遣って譲歩する必要もありません。
      実家の前に引っ越してきた家庭においても、幼児が奇声を上げることがあり、実家に帰った際、何度か注意したことがあります。敵対するかと思いきや、それによって感謝されたことがあります。
      そこのお父さんとお話すると「子供になめられていて、言うことを聞かないので、第三者が言ってくれるとありがたい」と過労状態の中感謝されました。
      まあそれもどうかと思う面もありますが、わかっていながらも混乱し八方塞がりになっているという感じでした。
      全てのケースではないでしょうが、「子供は宝」的な風潮が行き過ぎて横暴になっており、大人がなめられているということも要因としてあるような気がします。
      なので、親世代が注意を受けたことがないというケースも想定できますが、それとはまた別に「なめられすぎて対処に困っている」というケースもあるのだと思います。
      その原因としては以前は、家族構成が大規模であったり、地域コミュニティの結束が強かったり、戦時中を生きた祖父母世代の威厳などがある中、指導の労力の分散などもあったと思います。
      現代では仕事などで疲弊して気力のない大人が威厳を保てない中、負担が集中して耐えられず気力負けするというような構造もあるような気がします。

      そういえば、以前に説教した小学生が、わざわざ礼を言いに来たということがありました。中学年くらいの子でしょうか。
      インターホンが鳴ったので出てみると、一人で立ち尽くしていて、「言われるまで気づきませんでした。何だかありがとう」といって帰っていきました。
      また、奇声が聞こえたので外に出ようと思うと、そのうちの一人が、同級生と思しき奇声を発している友人たちを指導していました。
      そのように保護者たちには一度も教育されていないながらに、自分の頭で考えて理解していく子も少なからずいると思いますので、まだ大丈夫かなぁと思っています。
      ただ、格差はさらに広がるような気がしています。

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