われわれ追放された神々

人類は、その由来や、その独自性や、その使命などに関する誤謬によって、さらにこれらの誤謬に基づいてなされた要求によって、意気が高く昂まり、再三再四「自分の腕前以上のことをして」きた。しかし同じ誤謬によって、名状しがたいほど多くの苦しみが、お互いの間の迫害が、中傷が、誤解が、また個人の内面や個人自体でのさらに多くの悲惨などが生まれた。人間はその結果、苦しむ生物になった。

―(中略)

「苦しむ高慢な者」が当分の間相変わらず人間の最高の典型である。曙光 425

「私はこういう人間です」

そう自分に定義付けをしていけば、グラつきがなくなり、優柔不断さは消えるだろう、という予測のもと、勝手に様々なカテゴリの中に自分を当てはめて雁字搦めにし、常に自爆を行っている様がよく見受けられます。

「定義通り」の人間

その一方で「定義通り」の人間になれている、ということが「自信につながるぞ!」というような自作自演も行っています。

非常に遠回りであり、苦しみが少なくなるかのように見えて、結局苦しみの原因になってしまいます。

そして、できている/できていない、そう宣言した/していない、で周りとも揉めてしまいます。

周りは勝手に自分に対して属性を設定してきますが、設定されたからといって「それがどうした」です。少なくとも自分ではそんなことを設定しないほうがいいでしょう。

「どういう属性か」ということを設定していくと、その分だけ苦しみが増えます。一瞬で気分など変化していくのに、昔のことを引っ張りだして、何かを強制しようとしても、説得にはなるものの、よくよく見れば何の根拠もありません。

属性自体をすべて無効に

「性格が暗い」ということを自認していたとしても、明るくなろうとしてはいけません。そういう属性自体をすべて無効にしていく方向が唯一の道です。

だいたい何か劣等感を感じていることに対して、「悪者を潰そう」とか「苦手を克服しよう」というような方向性で考えてしまいがちですが、二元論化して逆を行くというのではなく、そうした属性を全て無効にしてしまえばいいのです。

ブックオフ100円自己啓発は、「暗いなら明るくしよう」と二元論化します。そして「明るくなるため」にアイツ騙しの手法ばかり唱えます。

「マイナスからプラス!」

「ネガティブからポジティブ!」

といった「レッツポジティブシンキング!」の世界ですね。

何なら別にこの手のものを一度経験してみてもいいと思います。確かに明るくなる場合はあるでしょう。

所詮自由意志など幻想であり、アイツこと自我は自分に対するイメージや言葉によって方向をつけてきます。自分にかけられた言葉、自分で自分に語りかける言葉によって、自我の属性が設定されているという感じです。

しかしながら、究極的にはそれは間違いなのだ、ということは聞いて納得より、実践すれば体験できますから、体験して感じて自分で考えればいいことです。

われわれ追放された神々 曙光 425

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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