どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか

考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。

同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。

哲学や思想

その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。テレビ番組を見るような感覚でその場の楽しみとしては聞き流せないような事柄を取り扱っているからこそ、変な感じがします。

その変な感じには、やはり「学問なのか?」というような点が大きく占めているような感じがします。

学問として体系的に分類したりすることはできますが、哲学や思想というものは、思考の行き詰まりであり、また、ひとつの可能性であり、一種の概念でしかありません。

哲学や思想等々いろいろな可能性や多様性を「認める」というのが世間では大人だというようなイメージがありますが、「多様性を認めない」という考えを「認める」ということは矛盾になります。

言語的・記述的な表現の違いというものはあっても、法則的なものはそんなに多様ではありません。

思想は思想の領域を出ない

現在思想家が何人集まろうが、それが思想である以上、思想の領域をでることはないでしょう。ある思想をもつと、その思想に執着してしまいます。かといって闇雲にわけもわからず、哲学的領域での分析や思想の内容について全て間違いだとするのは、また変な話です。

その思想のどこが変なのかがわかりきるくらいにまでになれば、自然と思想というものはなくなります。無くなるというよりも、「それがどうした」という感覚になるでしょう。

特に社会的な思想の場合、それを達成して、社会の状況が変わったとしても、それを「感じる」のは五感と意識しかありません。

世の中では社会思想として、社会全体がこうあるべきだということを推し進めようというようなタイプの思想がありますが、社会が変化したあとの世界を認識するのは自分であり、いまそうした不服を持っているのも思想という枠組みから世界を解釈した自分です。

結局は遠回りなだけで、あるのかないのかわからない、あるともないとも言える周りの状況に一喜一憂するだけ。一喜一憂は感情の世界です。何かの現象の変化に喜んでもすぐに消え、憂いてもすぐに消えていきます。

ほんのわずかな喜びのために、そのプロセスでたくさん嫌な感覚や感情を味わうのなら、何のためにしているのかわかりません。

 どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか 曙光 43

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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