これが人間か

「アウシュビッツは終わらない」を改めて読もうと思った時に、2017年に完全版として「これが人間か」が出ていたため、そちらを読むことにしました。

プリーモ・レーヴィ著「これが人間か」には、彼が体験したアウシュビッツ強制収容所での経験が綴られています。

「私はこの本を書くにあたって、犠牲になりましたというあわれっぽい調子や、復讐を叫ぶたけり狂った調子を捨て、証人が使うような節度ある平静な言葉を慎重に用いた。私の言葉が感情を抑えた、客観的なものになればなるほど、それだけ信用の置ける有意義なものになると考えて」

と記されるように、なるべく感情的にならずに、感情を表現することを慎みながら事実と人間というものに対する思索が綴られているこの著は、第二次世界大戦やナチスドイツについて知るというようなことを主題としなくても、人間の苦痛や野獣的要素、文化的・文明的ということを含め、人間とは何かというようなこと、そして自由意志や狂気について考えるに良い問いかけをふんだんに含んでいます。

ノンフィクションのため聞き慣れない言葉が出てきたり、文体のリズムが慣れ親しんだものでない分、少し読むのに苦労する部分が出てくるかもしれませんが、全体を通してみると、その労苦の分だけ味わい深さがやってくるような著作です。

最も重要なのは、その歴史的事実を知るということより、人間の本質や社会の中で起こりうる「縮図のような構造とその要因」を見逃さない理性を磨くことであると思います。

先日少し触れたToshlさんの「洗脳 地獄の12年からの生還」における、自己中心的でヒステリックな女性と「僕のためを思っていってくれているのかな」というマインドコントロール構造も一種の縮図であり、こうした心の動きは、どこの家庭でも起こりうることであるというのと同様、「これが人間か」における苦痛に関する遠近法の法則、「期待を持つという人間的感性は苦痛を生み出す」ということによる精神の動きは、過酷な労働環境等でいくらでも起こりうることであるということを見る方が賢明です。

またそうした加害者はいかにして生まれるのか、というところも重要です。

二元論で良いか悪いかを定めることが構造上難しい事柄であっても、特に社会で問題視されないからといって「別にいいだろう」とか「そちらがいいというのは当然で常識だ」という意識が蔓延すると、それら意識がある地点に集まって狂気を生むということを見逃してはなりません。

基本的に書評や引用のようなことはあまりしないことにしていますが、覚書程度に「これが人間か」の中で印象に残った部分を引用しつつ、そうした人間のあり方について触れていきましょう。

アウシュビッツ強制収容所での具体的な経験については著書に任せることにして、「これが人間か」といった感じで印象に残った部分について触れていきます。

限りなき苦痛と不足

「痛みや苦しみが同時に襲ってくる時、人はすべて合わせて感じるわけではない。ある一定の遠近法の法則によって、小さな苦痛が大きな苦痛の陰に隠されてしまうからだ。

―(中略)

人間が絶対的な幸福にたどり着けないことを示すよりも、むしろ、不幸な状態がいかに複雑なものか、十分に理解されていないことを表している。

不幸の原因は多様で、段階的に配置されているが、人は十分な知識がないため、その原因をただ一つに限定してしまうのだ。つまり、最も大きな原因に帰してしまう。

ところが、やがていつかこの原因は姿を消す。

すると背後にもう一つ別の原因が見えてきて、苦しいほどの驚きを味わう。

だが実際には別の原因が一続きも控えているのだ」p.92

まさに求不得苦に通じる苦しみであり、逆の側面から考えれば充足、満足にもキリがないことを示唆しています。

ある苦痛を回避するためにと、何かを手に入れた途端、その一段下に隠れていた苦悩が顔を現すということでもあり、渇望が充足しても、つかの間の満足にしか過ぎず、それと同等の苦しみがまたやってくるということになります。

強制収容所での苦痛は、生命維持レベルの苦痛であるため、日常を生きる人々にとっては意識することもないタイプの苦痛なのかもしれません。しかしながら、程度の差はあれ、こうした構造自体は常につきまとっており、いわば一種の地獄の中にいるということになります。

「生きることは苦しみである」ということの根幹に通じるような構造です。

しかしながら、そうした構造を持ちながらも強制収容所における身体的苦痛などの極限の苦しみ、生命としての苦痛を超えるような無駄な苦しみというものが世の中にはたくさんあります。

「何かがうまくいかないから苦しい」といった形で、外界に依存をしている様は、地獄を自ら作り出しているという姿に他なりません。

人間は、根本的には野獣で、利己的で、分別がない

「人間は、根本的には野獣で、利己的で、分別がないものだ、それは文明という上部構造がなくなればはっきりする。

―(中略)

むしろ人間が野獣化することについては、窮乏と肉体的不自由に責めたてられたら、人間の習慣や社交本能はほとんど沈黙してしまう、という結論しか引き出せないと考えている」p.110

「人間は、根本的には野獣で、利己的で、分別がない」というのが基本であり、他の動物と異なる点は「情報状態によってどういった生き物かが大きく変化する」という点に尽きるでしょう。

しかしながら、野獣であっても、訓練によって自然界とは異なった振る舞いをすることがあります。なので、そうした点が特異というわけでもありません。

ただ、その変化の範囲として、動物は物理的で体感ベースの変化である中、人間は情報のみによって変化が生じるというところが特殊な部分です。

しかし、そうした文明的な部分を検討していられないほどの苦痛を得た時、「窮乏と肉体的不自由」に閉じ込められた時、基本的な野獣の部分で生きざるを得ないということになります。

では文明が諸手を挙げて良いものなのかということになりますが、文明があるゆえに、情報のみの操作によって人間が変化してしまうという構造があるゆえに、偏りが生まれていきます。

基本は野獣であり、生存本能としての恐怖心の克服を前提として物事を考えます。プリーモ・レーヴィ氏の言葉を借りれば、「根本的には野獣で、利己的で、分別がない」という部分が基礎部分になります。そんな基礎の上に立った文明であれば、必然的に「自分は楽をして、誰かを犠牲にする」という構造が生まれるでしょう。

「ある秩序のためには力が必要になる」という中、力があるゆえに偏りが生まれ、狂気が生まれるというのもまた必然的です。

生命保存としての省エネルギーという目線から合理的に考えれば、選択のストレスなく力を維持するということになりますが、そうして手間を省いた分停滞した力は、流れのない水たまりが腐りやすいように、時と共に腐敗しやすくなるという構造を持っています。

そうした社会における手間と腐敗の問題をうまい具合に克服することは未だに叶っていないというのは実情であろうと思いますし、仮観の中にいる人々の中にあっては、今後も克服はできないものなのかもしれません。

意識的な諦めではない野獣の曇った鈍さ

空襲の日

「私たちは、と言えば、本当に恐怖心を持つにはあまりにも精神を破壊されていた。まだ正しく感じ、判断できるわずかのものは、爆撃から新たなる希望と力を引き出していた。

飢えてはいても、まだ完全な無気力状態に陥っていないものは、みなが恐慌状態にある時を利用して、しばしば工場の厨房や倉庫に、二重の意味で無謀な遠征を試みた(というのは、空襲の危険にじかにさらされる外に、非常時の盗みは絞首刑の罰を受けたからだ)。

だが大多数は、前と少しも変わらない無関心さを見せながら、新しい不自由や危険を耐え忍んでいた。

それは意識的なあきらめではなく、殴られて飼い慣らされ、もう痛みを感じなくなっている、野獣の曇った鈍さたった」p.152

「意識的なあきらめではなく、殴られて飼い慣らされ、もう痛みを感じなくなっている、野獣の曇った鈍さ」という表現のように、合理的判断の末の意識的な諦めとはまた違った形で、鈍さとして諦めが生じることがあります。

世の中で起こる洗脳やマインドコントロールの中には、意図的にこうした「野獣的鈍さ」をもたらすという段階が仕込まれていたりします。

「殴られて飼い慣らされ、もう痛みを感じなくなっている」という表現の通り、それは一種の自我を崩壊させるという手法であり、睡眠を削ったり暗闇で恐怖を与えたり、罵倒や暴力によって、人格を崩壊させるというような方法です。

アウシュビッツ強制収容所の場合は、選別によって虐殺と強制労働が振り分けられたように、いわば捨て駒、道具として扱われたので、ある種洗脳状態を意図しているわけではないと推測できますが、結果的に狭義の洗脳における常套手段である、暴力による人格の崩壊、野獣化というプロセスが起こっているということになります。

苦痛の源である感性

解放の二日前1月25日

「ロシア軍は今にもやって来るぞ、とみなが話していた。

みながそう宣言し、確信していた。だが心静かにそう信じているものは一人もいなかった。

ラーゲル(強制収容所)では希望を持つ習慣や自分の理性への信頼感が失われてしまうからだ。

ラーゲルでは考えることは役に立たない。ものごとは大体予期できない形で起こるからだ。

それに危険でもある。

苦痛の源である感性を生かしておくことになるからだ。

だが苦痛がある限界を超えると、何か思慮深い自然の法則が働いて、感性を鈍くしてくれる」p.222

あらゆる期待は、苦痛の源となります。人間が人間らしく感性を活かしている時、喜びの幅も大きいですが、苦しみの幅も大きくなります。

ただ、「苦痛がある限界を超えると、何か思慮深い自然の法則が働いて、感性を鈍くしてくれる」ということが示すように、苦痛も絶望も、ある限界を超えると、それが消えていくということがあります。

それは期待や抵抗というものを放棄した時に訪れます。

ただ情動の中にのみ没入すれば、そのエネルギーは、宙を舞う煙のように、空の透明に溶け込んでいきます。

古典的な物理的な思考で、理屈で考えていくと、消えるわけがないという感じになりそうですが、そうした物理的な思考自体が一種の自我による騙しであり、科学的思考がもたらした盲目という感じになっています。

一点に集中すると、その他の中途半端な意識の散らかりが消え、逆に全体が見えるということがあります。あくまでイメージですが、その状態から、その「一点への集中」を外すと、完全に全体が見えるという感じになります。

その時、完全に自然の中にいます。「自然の中に自分がいる」という感覚なく、自然のすべてを心が受けているという状態になります。

「苦痛の源である感性」は、この体を含め、我執から起こります。

もちろん生命としての即時的で直接的な苦痛の信号はそのままですが、その他の苦痛、苦悩は、「私は未来にこうなる」とか「この私はかつてこうであり、未来にはああなっていたい」という我の意識から来ています。

期待や抵抗は、我を中心として起こります。「我よ、こうあれ」という意識的なものです。

考える存在としての人間の規範

解放前日1月26日

「人を殺すのは人間だし、不正を行い、それに屈するのも人間だ。だが抑制がすべてなくなって、死体と寝床をともにしているのはもはや人間ではない。

隣人から四分の一のパンを奪うためにその死を待つものは、それが自分の罪ではないにしろ、最も粗野な野蛮人や最も残忍なサディストよりも、考える存在としての人間の規範からはずれている」p.223

「隣人から四分の一のパンを奪うためにその死を待つ」という極端なことでないにしろ、こうした構造は社会の中でいたるところにあります。

確かにアウシュビッツ収容所での出来事は、常軌を逸する出来事であるというのは事実であると思いますが、全体を通した意識の働き、精神の動き、二者間以上の人間で構成される「社会」の中では、程度の差はあれ当然に起こりうるような構造であると思います。

ただ、彼の言葉は、「考える存在としての人間の規範」は「抑制」にあり、その抑制、抑制の元となる信念や良心は、苦痛によって簡単に崩れてしまうということを示しています。

かつてのドイツの狂気も、貧困と失業がその土台となっていたという部分があります。

こうしたことから、かつては、地域問わず窮乏から犯罪が起こるということが一般的でしたが、近年はそうした貧しさからくる苦痛が意識的情報の空間に及んでいます。だからこそ世間の共通認識から外れた「原因不明とされる動機」による犯罪が起こるという感じになるのでしょう。

先進国においては、様々な合理化の末に貧困による飢えや寒さなどの身体レベルでの苦痛がなくなっても、次は、合理化の上で失われたコミュニケーションの希薄化などが原因となり、意識的情報の空間において貧しさが生まれ、狂気が起こるということになっています。

結局は、先に触れた「限りなき苦痛と不足」に通じています。

生命維持レベルでの苦痛が消えればそれで満足というわけではなく、結局自爆的に別の領域で苦痛を得ているという構造になっています。

理性的態度の美しさ

1973年刊「これが人間か」学生版に収録されたという「若い読者に答える」という文章の中には以下のようなものがあります。冒頭でも部分的に触れたものになりますが、プリーモ・レーヴィ氏の理性からくる姿勢に、美しさを感じました。

かのアウシュヴィッツ強制収容所にいてなお、人間の理性を信ずる彼の姿勢は、時代を超えて一読の価値があるのではないでしょうか。

以前にも触れましたが、僕は歴史にはあまり関心がありません。それが事実であったか、という部分や、事実であればどうなのか、という部分は、現代に生きる人々各々の「都合」によっていかようにも捻じ曲げられ、時にそうした事実は、誰かの意図に利用されるにとどまるという場合もあるからです。

しかしながら、事実であろうがなかろうが、示された構造の中で、人間というものを捉えるにあたっての「良質な問い」というものは有意義に取り扱うことができます。

あくまで僕は、こうした歴史的事実に関する事柄に関し、「社会的なこと」としてではなく、我が事、我が心のこと、この意識の認知や意志決定における「何かしらの思考鍛錬のお題」となればと思ってそれら書物を読んでいます。

質問「あなたの本にはドイツ人への憎しみ、恨み、復讐心の表現がありません。彼らを許したのですか?」

「(略)私の見るところでは、憎しみとは個人的なもので、ある特定の個人、名前、顔に向けられるものだ。ところが当時私たちを迫害したものが、顔も名も持っていなかったことはこの本からも読み取れるはずだ。

(略)

私は理性を信ずるし、話しあいを最上の進歩の手段と考えている。だから憎しみよりも正義を好むのだ。

ゆえに私はこの本を書くにあたって、犠牲になりましたというあわれっぽい調子や、復讐を叫ぶたけり狂った調子を捨て、証人が使うような節度ある平静な言葉を慎重に用いたのだ。

私の言葉が感情を抑えた、客観的なものになればなるほど、それだけ信用の置ける有意義なものになると考えてのことだった。

ただこうすることによってのみ、裁判に臨む証人は任務を果たすことができる。つまり判事に判断材料を提供できるのだ。そして判事になるのは、あなた方読書だ」p.232,233

(「これが人間か (改訂完全版 アウシュビッツは終わらない)」プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳 朝日新聞出版 2017)

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ