うつと仕事と経済的自立

うつと仕事と経済的自立ということで、うつと仕事を中心に書いていきます。

ご連絡の中で、うつ状態にある自分がどうやって経済的自立を果たせば良いのかとか、体力が続かない中、仕事面はどうすればよいのかという旨のご質問をいただくことがあります。

具体的な職探し等々は、ご本人の性格やスキル、エリアごとの求人状況によって千差万別なので、各エリアの職業安定所や求人サービス等々に委ねるしかありません。

まあ経済的自立に関して言えば、就職という形でなくても構わないのですが、「起業や投資等々なんてとんでもなく、ひとまずそれしか浮かばない」というレベルなのであれば、そうした形から始めるくらいがちょうどいいでしょう。

うつと仕事といっても、休職中とか失業中とか、アルバイト・パート労働等々で低賃金などなど、人によって労働環境は様々なので一律に論じえません。

しかし、ひとまず全てに通じるような部分を抽出して、書けるものは書いておこうかなぁと思ったしだいです。なので、参考になるかもしれませんし、全くならないかもしれません。

「誰か助けてくれ」からの脱却

「誰か助けてくれ」とか「誰か拾ってくれ」という思いが起こることがあります。

まあよほど急性の腹痛とか、いきなり怪我をしたとか、急に倒れたとかそういう場合ならもちろん「誰か助けてくれ」というは語るまでもなく何の問題もありませんが、逆説的になるものの皮肉なことに「誰か助けてくれ精神」、「誰か憐れみから拾ってくれ精神」を保持したままではうつの根治はありません。

しんどく辛いのはわかりますが、この世にはたくさんの法則があり、残念ながらそれは趣味で選択することなどできず、いくら合議で多数決を取ったところで変更することのできないものです。

「誰か助けてくれ精神を保持したままでは、経済的自立も叶わず、また、うつの根治もない」ということは変更できないような法則です。

課題の分離

ここで、一度課題の分離をしておきましょう。

社会の課題と個人の課題という課題の分離です。

「手を差し伸べてもらうのは自分の方だ」とか、「保護されるべきは自分の方だ」といったタイプの思いがあったとしましょう。

大きな枠組みとしての社会

それは「社会的」には正しさを帯びます。といっても国家単位くらいの大きな社会においてです。大きな枠組みとしての社会といった感じです。

確かに客観的な「社会」としては被害者のほうかもしれませんし、他人と比較した場合、不利な環境にあるのが事実としてあるということもよくあります。

なので、社会に対してそういう考えを理性として持つのは問題がありません。

しかし、「自分は被害者なのだ」といったところで、現状が変わらない場合、いくら叫んでも変更ができない場合、その思い自体は無駄な思いです。

確かに誰かのせいで自分がうつになり、苦しい思いをしているというのは本当でしょう。

しかし、その責任を取ってもらおうとして、本当に裁判などで金銭的に償ってもらったりできるのであれば、それは「社会の問題」としてそうしてもらえばいいという感じになります。

求職者や従業員対雇い主というミクロ的な社会

しかしながら、そうした社会的フィールドにおいて、例えば、金銭や家庭環境などが原因で学歴等々に恵まれなかったからといって、就職に不利だというということを叫んだとしても、その事実は雇い主には関係がありません。

雇い主はただ、与えた環境で仕事をこなしてくれるかどうかというところが一番の関心事であって、感情で判断して会社を潰すわけにはいかないという責任を持っています。取引先もありますし、他にも従業員がいるのだから当然です。

なので、大きな枠組みで考えた場合は、社会の問題として不平等を是正するという課題があります。しかし、求職者や従業員対雇い主というミクロ的な社会においては、「そんなことは関係がない」という感じになってしまいます。

個人の課題

そこで考えてみたいのが、社会的な正しさではなく、個人としての課題です。

それは「責任関係を追及したところで状況が変わらないのであれば、この私としてはどうすればいいのか?」という点です。

「誰か助けてくれ精神」や「憐れみで拾ってくれ精神」は、いわばすがり根性であり、憐れみ乞い精神です。

辛くしんどく、不安定な精神状態の中、そう言いたくなるのはわかりますし、確かに本当にかわいそうなのかもしれません。

しかし、その状態が続いたところで、心は安らぐでしょうか。

たまに誰かが憐れんでくれて、ちょっとばかりは助けてくれることもあるかもしれません。

しかし、それに依存するということは、対象が無くなった瞬間に成り立たなくなるということに繋がります。頼る相手が消えてしまうことに対する恐怖心も残りますし、世間一般的な発想で考えても経済的自立にはなりません。

そこで、個人の課題は何か、ということを考えた場合、厳しい目ですが「環境のせいにせずに現状を突破すること」くらいしかありません。

社会的に考えれば、環境のせいという感じになりますが、それを思ったところで、それが事実だったとしても、変えることができないのなら「自力で立ち上がっていくしかない」ということになります。

自立と安心感を奪う「楽をしよう精神」

今までの自分の発想でうまくいっているのならば、既に問題ではないことがある程度証明されていますが、うまくいっていないのであれば、法則によって示された「その解釈は間違いである」ということから目を背けているという感じになります。

「誰か助けてくれ精神」、「誰か拾ってくれ精神」は、単純には自立と安心感を奪う「楽をしよう精神」というふうに言い換えることができます。

「誰かいい人がいて、全ての生活を支えてくれないかなぁ」

というのは完全に「楽をしよう精神」です。

それは金銭面でもそうですし、精神面でも同様です。

それは端的には依存であり、依存はそれが無くなることへの恐怖心を生みます。つまり執著を生み出します。

それは経済的自立においては、「すべてを受け入れてくれる企業がないかなぁ」という形で表現することができます。

極端に言えば、相手から奪い、自分は奪ったもので楽をして生きていこうという発想です。

グチグチいっている求職者をよくよく観察してみると、被害者面はしていても、結局ギャンブルをしていたり、飲み歩いていたり、これだけは手放せないなどと、スマートフォンのボッタクリ契約を継続していたりします。

スキルが無いなら古本屋で100円の本でも読んで、ナレッジだけでもつければいいのに、テレビや動画共有サイトを観て時間を浪費していたりします。

これはつまり、相手の役に立とうという気など無く、かわいそうな自分を誰か助けるべきだ、という発想になっています。

お役に立つことを筆頭に「相手を喜ばせた分だけお金が入る」という法則が見えていないということです。

「環境が悪かったせいで、自分には経歴やスキルがない、だから稼げない」というデータ偏重主義です。

「客観的なデータで判断される中、自分にはその値が十分にないので、評価されない」という誤りがそこにあります。

安心感と感情要素

仮にすべてをデータ化したとしましょう。そうした場合で考えれば、表面的で部分的なデータしか見えていないということです。

一応、多少モデル化して、全ての構造を完全に数値化して考えることはできます。

数値化して基準に合致すれば、就職なり、職場での評価なりがうまくいくという感じで考えることもできるという感じです。

その場合の評価基準に関して、基本はスキルやナレッジ、そして期待値としての実績等々ですが、それ以外にもたくさんの要素があります。

でも、スキルやナレッジ、そして実績は評価基準として何のためにあるのでしょうか?

それは、お役に立つかどうかという点です。

ではデータとしての実績は何かというと「相手の不安感を拭う」という意味で、多少の貢献をしてくれるという程度だという感じです。

実績が相手の不安感を拭うという点で貢献してくれるという点を考えれば、相手の「感情」にプラスの効果を与えるものなのであれば、何でも対象になるということが見えてきます。

スキルやナレッジは、それ自体で価値を生み出せるという点ではかなりの重要な要素になり、多少相手が不安感や不信感を持っていたとしても、そうした技量だけである程度必要とされたりします。だから変人でも仕事が与えられているのです。

そして、それらスキルやナレッジは、それ自体で生み出す価値以外にも、相手に安心感を与えるという要素を持っています。

専門知識を質問されて、オロオロしたりせず、検索して調べたりすることもなく即答できるとすれば、それは相手に安心感を与えます。

そのような感じで職探しや職場の対人関係等々でも、技量だけでなく感情要素が「うまくいくための要素」としてあります。

それらは単体では力が弱いかもしれませんが、かなり複合的に集まってトータルで大きな要素として登場してきます。

履歴書などは所詮表面的で部分的なデータです。それに自信がないなどと尻込みするのはまさに部分しかみえていないという感じになります。

残念なことに学校ではそうした感情要素の重要性を教えないどころか、教育関係者は概ね試験で仕事を獲得し、試験にまつわる仕事をしている人が大半なのでその事に気づいていない人だらけという感じになっています。

感情要素は、本人の自信と相手への思いやりが最強ですが、自信がない人でも基本的には細かな要素をかき集めれば、何とでもなります。

身だしなみ・清潔感とか、少し大きな声を出すとか、あいさつをするとか、少し笑ってみるとか、調べられるのであれば相手のことを知っておくとかそんな感じです。

しかし、「楽をしよう精神」があると、一気に台無しになります。「救ってもらうのはかわいそうな自分の方で、相手のことはお構い無し」という精神状態があると、それは余裕の無さになり、経済的に考えると貧乏臭さを生み出してしまいます。

少しイメージしてみればすぐにご理解いただけるはずですが、すごく売上を上げるような営業さんや、行列のできるようなお店などは、高いレベルでの自信と相手への思いやりがあるはずです。たまに「思いやり」の方を演出でごまかしている人もいるので、一概には言えませんが…

パートのレジ業務をクビになった人

知人で、パートのレジ業務をクビになった人がいます。

その人は、お客がレジに来たら会計をするということだけが仕事であり、それさえこなしていれば問題はないだろうと思っていました。

しかし、客商売なので、本質的にはその表面的な業務だけが仕事ではありません。

「君がレジに立つとお客が減る」と言い、店主はその人をクビにしました。

「腐った社会のせいなのだから、腐った社会を作ったお前らが責任を取れ」

という思いをしている人を誰も雇いたいとは思いません。

「お前らはいいなぁ。恵まれてて」

という思いを持っている人、チャンスがあれば気力を奪おうというような人を職場の人やお客さんが喜んでくれるわけがないのです。

なので、ちょっとした修行を行うくらいがちょうど良いでしょう。

「なんか今日はいい日かもしれない」と思ってもらう修行

「相手のほうが恵まれているはずで、恵まれていない自分の方が助けてもらいたいくらいなのに」

という思いを持っている限り、仕事はうまくいきません。

確かに相手の方が恵まれていたりはするかもしれませんが、それでも相手に少しだけ喜んでもらうという行動を起こすことができれば、徐々に「楽をしよう精神」は消えていきます。そしてそれに伴い、気持ちに余裕が出てきます。

余裕が出てくるのだからもっと「誰か助けてくれ精神」は消えていくということになります。逆説的ですがそれが法則です。

「どちらのほうが恵まれているか」という比較は社会的な課題の方です。

そうした社会的な課題を、うつにある人が考える必要はありません。

自分個人の意識・精神の問題として、どうしていくかが肝心です。

なので「自分の意識に余裕を生み出す」ということであれば、相手に「なんか今日はいい日かもしれない」と思ってもらう程度の喜びをあげてみるという感じが理想的です。

別にお金がないのにお金をあげるとか、そんな大それたことではありません。ちょっと笑顔で挨拶をしてみるくらいから始めるのが最適です。

求職者の人であれば、面接本番で取り繕っても概ねバレてしまうので、普段から余裕の意識にシフトしておくくらいがちょうどいいという感じになります。

もし寝込んでいて誰とも会わないという人であれば、頭に思い浮かんだ人に対して、「なんか今日はいい日かもしれない」といった程度にその人をちょっとだけ喜ばせるとしたら、どんなことをすれば喜んでくれるかを想像してみると良いでしょう。

いきなり「あの野郎だけは許せない」という人の幸せを願うというのはハードルが高いので、それはかなり余裕になってからくらいにしましょう。

ただそこで陥ってはならないのが、見返りを求めるということです。それは社会的な取引であり、個人の精神のためのことではないので注意が必要です。

「あなたを喜ばせるために笑顔で挨拶をしたのだから、せめて笑顔で挨拶を返すくらいのことをして私を喜ばせろ」

というのは取引です。それでは余裕は生まれませんし、時に応じない相手に怒りを生じさせる要因になってしまします。

同様のパターンとして「寄付」というものがあります。

寄付をすると余裕を感じます。それも「誰かを助けること」であり、相手の幸せを願って見返りを求めずにする行為です。

しかし、たまに「金持ちになるには寄付をすると良い」なんてな表面的な言葉だけを拾って、「100円を払ってやるから1万円をよこせ」という「楽をしよう精神」による取引をしようとする人がいます。

そんなリターン率100倍のものは投資や事業の世界でもほとんどありません。投資や事業の世界でもそれほどのリターン率を得ようと思うと入念な準備などが必要になります。

たかだが募金箱にお金を入れるという行為だけで100倍のリターンを得ようなど、まさに「楽をしよう精神」です。

お賽銭箱に100円入れて「年収一千万円の人と結婚できますように」なども同様です。まずどうしてその人と一緒になっただけで自分のお金になると思えるのか、というところから不可解ですが、単純に半分と考えて年間だけで50000倍、30年で1500000倍のリターンです。よりえげつない「楽をしよう精神」です。

もちろん稼ごうと思えば、仕事や稼ぎ方を楽にしていかなければならないのですが、「一から十まで他人にもたれかかって楽をさせてもらおう」というタイプのものではありません。

と、少し脱線気味になりましたが、「なんか今日はいい日かもしれないなぁ」と思ってもらうにあたって、自己犠牲は必要ありません。ちょっとしたことの積み重ねです。

所詮意識など身勝手です。

「自分が不幸なのに人の幸せを願い、喜びを与えることを考えるなんてできない」

というのは普通ですが、それが論理としていかに正しくても、苦痛しか与えてきません。

そして逆に「自分は客観的に見るとまあまあ不遇な方だと思うが、それを言っても仕方ないし、ひとまず相手の幸せを願い、喜びを与えてみよう」という感じで、過ごしていくと

「ということは、自分は相手の幸せを考えるくらいに余裕なのだ」

という感じで勝手に頭がそう解釈していきます。

それが進んでいくと、「誰か助けてくれ」から「こういう部分ならお役に立てそうだ」という発想に変化していきます。

そうなると、仕事や経済的自立などはもちろん、生活の全てがうまく運んでいきます。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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