タグ別アーカイブ: 哲学

哲学分野

「真理」のために!

「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであることも証明しないこと、真理は真実とは違った証明がなされること、そして後者は全然前者の論拠ではないことをどうか学んでくれ! 曙光 73 たまに「社会的に考えてはいけない」というようなことを言

» 「真理」のために!の続きを読む


贅沢な毎日

昨日の昼のことになりますが、現在要介護状態の養子のうさぎを撫でながらコーヒーを飲みつつ、はっぴぃえんどの「風をあつめて」なんかを聴いていると「すごく贅沢だなぁ」と感じました。 ほとんどたったそれだけのことなのですが、そんなことを書こうと思ったら眠気がして、夕方まで爆睡していまいました。 何も南の島に行ってビーチでのんびりとか、そういった手間のかかることをしなくても、同じくらいの「のんびり感」を感じることができるということは、すごく贅沢です。 そんな贅沢な毎日が続いています。 何かを「必要だ」と思い込んで、「やる気が

» 贅沢な毎日の続きを読む


ローマに対するキリスト教の復讐

おそらく普遍の勝者を見ることより以上に疲れるものはないであろう。 曙光 71 序 普遍の勝者を想定する場合、社会的な横並び目線で考えることは避けなければなりません。それはいずれ自惚れや欠落への恐怖心、もしくはルサンチマンを発動せざるを得ないからです。 同じような年齢の人同士ではよく比較なんかが行われます。先日もどこかで書きましたが、やたらとランキングが気になるのはそうしたものの最たるものです。 そして勝敗を絶対的に考える場合でも、例えば他人を無視して自分だけで考えていく場合でも、過去との比較、過去の記憶のようなもの

» ローマに対するキリスト教の復讐の続きを読む


現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。 普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究法は基本的には、日常、疑いをかけないことに対して疑問を抱くことから始まります。

» 現今の人々の哲学研究法の続きを読む


同情の中の幸福

同情は、快楽を含み、また少量で優越を味わわせる感覚として、自殺の解毒剤となる。それはわれわれから洩れ出て、心を満たし、恐怖と無感覚を追い払い、言葉や、嘆息や、行為などをつのらせる。 曙光 136 中腹 もし同情の中に優越感を感じたとしても、相手との比較の中での感情にしかすぎず、そうした相対的な尺度がまた、自分を苦しめる原因になります。また、もし同情の中で相手の憂いなどと同調することになれば、無駄に憂いを感じてしまうことになります。 他人が憐れみを乞うてきたとき、取るべき態度は簡単で、爆笑するに限ります。 憐れみ乞い

» 同情の中の幸福の続きを読む


哲学者と老齢

夕暮れをして昼間を判決させるのは懸命でない。なぜならそのとき疲労が力や成功や、善い意志などの判事になることが、あまりにもしばしばだからである。そこで全く同様に、老齢とそれの人生の判断とを顧慮する最高の慎重な態度が必要であるだろう。 曙光 542 序文 哲学者と老齢ということで、老いていくに従って訪れる頭の回転の低下を少しばかり実感しています。 我が事を思い返してみても既に頭の回転が低下しています。全盛期は23歳から25歳くらいだったでしょうか。 ただ、回転速度自体は下がっても、「効率の良い回し方」を習得しているので

» 哲学者と老齢の続きを読む


幻想能力

中世全体を通して、最高の人間性本来の、また決定的な特徴とみなされたものは、人間は幻想― すなわち、ひどい精神的な障碍!― の能力があるということであった。 曙光 66 序文 幻想能力ということで、20歳位のときですが、小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。 この現象を取り扱う際、哲学的思索の中で考えたことと言えば、現実を過ごしても夢の中で過ごしても、いずれにしても「情報を感じているだけだ」とふんわり思っていたため、どうせなら一生寝て過ごしたいと思っていた時

» 幻想能力の続きを読む


諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?

諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することを恐れてはいないか?諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか?― 曙光 539 文末 同じような内容のことを先程書いたので、「諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?」についてはどうしましょう。 … お金が欲しい人は、お金がもたらす安心感や新しい経験が欲しいと思っているだけで、お金そのものが欲しいわけではありません。 同じように、彼女が欲しいと思っている人は、もしかするとただ

» 諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?の続きを読む


絶望する人々

何かに絶望して、絶望したままだと、また絶望を味わうような現実が展開されていきます。 絶望とか希望とか願望なんてなものは、アイツの演算結果であって、本来は存在しないものです。 絶望は期待への諦め、自分が望んだとおりには進まないという状態を体感した時にやってきます。 ということで普通、絶望の手前には何某かの希望や期待、願望があったはずです。そして、予測があり、予測通りにはいかないであろうことが確定したと頭で考える時に起こります。 重要度の高さと絶望感 しかしながら世間一般で思われているような絶望は、絶望の極みではありま

» 絶望する人々の続きを読む


思索家の廻り道

多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530 アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。 そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのではないでしょうか。 一人で思索することもあれば、誰かに相談して知恵を借りようという

» 思索家の廻り道の続きを読む


諦め

諦めとは何か?それは病人の最も気楽な状態のことである。彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し、そのために疲れた― そしてそれをはじめて本当に見つけたのである! 曙光 518 輾転反側(てんてんはんそく)=悩んでいたり、心配事があって、何回も寝返りをうつという感じです。 さて、「諦め」です。 人生は諦めが肝心です。この諦めとは絶望という要素を含んだ諦めというよりも、執着を手放すという意味での諦めです。 執着はそれ自体が苦しみですし、現在「不足している」とか「余計な状態が続いている」という意味で、欲や怒り

» 諦めの続きを読む


目的か?意志か?

たまに「今 集中」なんてなキーワードでサイト内検索が盛り上がっていることがあるようですので、今に集中するということについて書いていきましょう。 もちろん、「今やっていることに集中しろ」というような、義務教育的なお話ではなくて、今この瞬間に意識を集中させるというようなものです。 今に集中する場合、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。 でないと、あとで変な宗教にハマってしまうかもしれないからです。 全ての思考と感情をストッ

» 目的か?意志か?の続きを読む


キリスト教と感動

キリスト教の中から、哲学的に反対する大きな民衆的な抗議をも聞きとることができる。古代の賢人たちの理性は、人間に感動を思い止まらせた。キリスト教は感動を人間に再び与えようとする。 曙光 58 前半 「キリスト教と感動」ということで、またまたニーチェの好きなキリスト教系の話題です。たいていニーチェがキリスト教のことを語る時、イエスのことではなく、パウロ以後宗教化されたキリスト教のことを指していることがほとんどです(最初のキリスト教徒)。 キリスト教徒、特にキリスト教系新興宗教・カルト宗教においては「新約聖書に書いてある

» キリスト教と感動の続きを読む


「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している

「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している、なんてな感じで、久しぶりに哲学カテゴリで書いてみます。 なんだか体育会系に多いじゃないですか、こういう「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言いたがる人。 徹底的に哲学的というか論理的に書いてもいいのですが、あんまり難しいのも何なので、少し噛み砕きながら書いていきます。 まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい まず表題に直結したような論理の破綻からいきますね。 まだ来ていない「未来」が確定して

» 「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻しているの続きを読む


「自由の国」について

われわれは、行為したり体験したりするよりも、はるかに、はるかに多くのものを考えることができる。 曙光 125 序 確か病中真っ只中の時だっと思いますが、ふと考えたことがあります。 もし、夢の中でもなんでも良いのですが、イメージの世界だけにずっといれるのであれば、現実世界の身体は特にどうでもいいのではないか、という感じのことです。 何だか寝ぼけているときや、空想にふけっているときや、映画を見ている時なんかによくそんなことを考えていました。 イメージの世界 で、そのあといろいろと考えてみたのですが、仮にイメージの世界に

» 「自由の国」についての続きを読む


戦争

現代の大きな戦争は、歴史的な研究の成果である。 曙光 180 「戦争」 こんな思想主義的なテーマのタイトルになるとは、といった感じですが、特別企画なので仕方ありません。 今の現代で戦争といえば、さまざまな歴史的な研究の結果、いろいろな主義ができて、その主義同士のぶつかり合いとして、無駄に戦うということが繰り広げられています。 まあ言ってしまえば、戦争は悪か否か、というようなことすら主義ですので、戦争についての意見自体が戦ってしまうという落語的な結果になっています。 しかし戦争は、その属する社会、個人の集合体をもって

» 戦争の続きを読む


願望とは何だろう!

願望ってなんだと思いますか? なんてね。 さてさて、願望の定義なんてほとんどどうでもいいのですが、一応書いておきましょうか。 辞書なんかを引っ張っても 「望んでいること」 とかそんなレベルだと思います。 調べてみると 「願ってその実現を望むこと」と出ました。 比較的ポジティブに「不足に気づくこと」 願望というのは一応望んでいることには違いないのですが、99%くらい、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」です。 望んでいるということは、今現在無いという認定であり、かつ、それが自分の幸福感にとって不足している対象だと考

» 願望とは何だろう!の続きを読む


不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み

一月ぶりになりました。曙光シリーズを進めようと思ったら、実家に置いてきていたようでした。ということで、哲学カテゴリでも良かったのですが、あえて「うつ」テーマとして、根本的なことについて触れてみましょう。 だいぶ前に「ストレスは溜まるものではない」みたいなことを書きましたが、何となく意味は伝わっているでしょうか。 そんなものは実在はしないのです。そして、今現在、そうした思考なんかが再燃して今現在ストレスを感じているということや、そうしたことの繰り返しによる身体のダメージがあるだけで、ストレス自体が溜まっているのではな

» 不足感や願望は「過去からの因果」という思い込みの続きを読む


国家をできるだけ少なく!

われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末 ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。 つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。 そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。 社会においてもっとも危険な洗脳の一つは、義務教育課程で教える側にいる人たちの思想です。 そのタ

» 国家をできるだけ少なく!の続きを読む


ニヒリズムと「がっかり」をよく考えよう

ニヒリズムと「がっかり」の先にある境地に行くまでのその手前のお話をしようと思います。 最近しばらくご無沙汰のあとに投稿したのですが、そうするとやっぱり全体的なPVが急上昇するようです。 でも最近の投稿は、どうしても社会に触れた分の社会的な垢の分だけ、社会的なテーマになっています。 それでは常連さんとしては物足りないのではないか、ということで「ニヒリズム」と「がっかり」です。 というよりも、こういったテーマなど久々にどうかなと思ったので、書いてみようと思いました。 何だか最近変な記事と言うか素人が「ニヒリズムについて

» ニヒリズムと「がっかり」をよく考えようの続きを読む


祖先に対する批判

新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。 何かを考え始める時、何かの文献を頼りにしろという方法論自体が、少しおかしいといつも思います。 それは

» 祖先に対する批判の続きを読む


こんな小さな真理!

「真理」という字を見ると胡散臭い印象がしてしまうため、あまり使いませんが、なぜ胡散臭い団体ほど真理という言葉を使うのでしょうか。 やはり、「あなた達の知らない真実」という旨で使うのでしょう。そして私は知っていて、教えてあげるから私を拝みなさいというようなことを思うのでしょう。 残念ですが、彼らの言う真理など「再現可能性のない妄想だ」と言われても、それを覆すことは彼らにはできません。 根本的に大前提となっている事柄がおとぎ話のような仮定であり、その根拠自体も文献が古いとか伝統的だとか、その程度です。 そんな宗教系の胡

» こんな小さな真理!の続きを読む


人間嫌悪

甲。認識せよ!そうだ!しかしいつも人間として!何だって?いつも同じ喜劇の前に座るのか、同じ喜劇を演じるのか?この眼以外の眼では、物を見ることが全くできないのか?しかも認識に一層適した器官を備えた存在は何と種類が無数にありうることだろう!人類はそのすべての認識の最後に何を認識しているだろうか?― 人間の器官だって!ことによるとそれは認識の不可能性ということだろう!悲惨と不快だ! ― 乙。これは悪い発作だ― 君は理性から襲われたのだ!しかし明日になれば、君は再び認識の真中にいるだろう。それと同時にまた非理性のただ中に、

» 人間嫌悪の続きを読む


自我の領域

「自我の領域ではない領域とは何ですか?」 自我の領域ではない領域です。 という同語反復です。 … さて、釣りページに「自我の領域から離れなさい」と書いているからでしょうか、やはりよくわからない事柄なのかもしれません。ということで、「自我の領域」とは何なのか、また逆に「自我の領域ではない領域」「自我とは別の領域」とは何なのか、ということに対しての回答です。 アイツこと自我は、生存本能、生存本能からの恐怖心が発端ですが、自分というものの「実在」、自分と外界を分け隔てる要素、など、一言では表現しにくいような事柄です。他に

» 自我の領域の続きを読む


愛と真実

愛するあまり、われわれは、真理に対する悪い犯罪者であり、われわれにとって本物だと思われるより以上を本物にしてしまう習慣的な故買者(けいずかい)であり泥棒である。 曙光 479 前半 相手が物であれ人であれ、何か考え方のようなものであれ、愛著のような「好き」という感情、「何を犠牲にしてでも」というような自己犠牲の精神などが含まれるような、擬似的な愛にとらわれると、事実を事実以上に見てしまい、本物以上に、本質以上に、無駄に評価してしまいます。 例えば、お涙頂戴系の企画で「恩人のために走る」というのは、人がただ無駄に走っ

» 愛と真実の続きを読む