タグ別アーカイブ: 哲学

哲学分野

「この印において汝は勝つであろう。」

その他の点でヨーロッパがどれほど進んでいようとも、宗教的な事物については、ヨーロッパは古代のバラモンの素朴な囚われない心にまだ到達していない。 ― さしあたりわれわれは、インドで、思索者の民族の間で、すでに数千年以上前に思索の命令として実行されたものを、ヨーロッパが取り戻すように気をつけよう! 曙光 96 一部抜粋 ニーチェによる「曙光」一書の締めくくりは、インドにおけるバラモン、そしてブッダの記述が見られ、ヨーロッパにおける心に関する考え方自体への警鈴が示されています。 さて、「この印において汝は勝つであろう。」

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第1100回投稿記念

これで1100記事目になります。1100回目の投稿ということで「第1100回投稿記念」です。 ZERO STAGEで少し嵩増しされた感はありますが、前回の第1000回投稿記念は、2017年9月20日で、前回からの100記事は、その前と同じくまあまあの速度で投稿したという感じです。 そういえばもう少しするとロングラン特別企画「曙光」が終わります。どうせならということで、題目終了後も多少注釈ページや「訳者あとがき」などからエッセンスを見つけて何かを書いてみようかなぁと思っています。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとう

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「利他主義」の原因

人間は一般に、愛を少ししか手に入れたことがなく、この食物を飽きるほど食べることができなかったので、愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた。 曙光 147 序 「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。利他主義とは、自分のことよりも他者の利益のことを考えるというような主義になりますが、本質的には別に自分を蔑ろにしてまで利他的であれというわけではないと思います。 しかし極端な利他主義となると、自己犠牲の上でも他人に尽くそうというような歪んだ思想になる恐れがあります

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真理とは何か?

神がまさしく真理でないとしたら、そしてまさしくこのことが証明されたとしたら、どうだろう?神が人間の虚栄心であり、権力欲であり、短気であり、恐怖であり、喜びと驚きの妄想であるとしたら、どうだろう? 曙光 93 後半 「真理とは何か?」 といきなり胡散臭いカルトのようなタイトルですが、特別企画なので仕方ありません。 カルトもよく真理という言葉を使いますが、「教祖に財産をお布施しないと地獄に落ちる」等々、それは真理ではありません。 しかしながら、そんな変な宗教や宗教まがいの自己啓発セミナーなどにハマってしまう人たちがいま

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「利己的でない!」

あの人は空虚であって充実することを望んでいる。この人は満ちあふれていて空になることを望んでいる。― 双方とも、そのため彼らの役に立つ個人を求めるように駆り立てられている。そしてこの過程は最高の意味で理解されたとき、どちらの場合も、愛、という一語で呼ばれる。― 何だって?愛は利己的でないものであろうか? 曙光 145 利他精神を賞賛しようが、どこまでいっても利己的でありつつ、利己的であることを突き詰めると利他的にもたどり着く、というのが本当のところです。 「利己的でない」ということは、通常の対義概念で考えると利他的で

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神の誠実

全知全能であり、しかも自分の意図がそれから想像されたものによって理解されることを配慮さえしない神、― それは慈悲の神であろうか?数かぎりのない懐疑と疑念を、人類の救済にとって危険なものでないものであるかのように、数千年も長いこと存続させる神、しかも真理をつかみそこねた場合には、再び最もおそろしい結果を約束する神が?真理を持っていて、人類が真理を求めて悲惨に苦しむ状態を観察しうるのは、残酷な神ではないのか?― しかしおそらくそれはやはり慈悲の神であるであろう。― 彼はただ自分をそれ以上にはっきりとは表現することができ

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最悪の敵はどこにいるか?

自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がどこで求められるかを見積もるがよい! 曙光 416 人類史上、最も優れた発明は「ゼロ」の発見であるということを言う人がいます。しかしながら一方で、その「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であ

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不殺生戒と人を殺してはいけない理由

不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。 戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。 殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め

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序列をその国民に与える

多くの偉大な内面的な経験を持ち、精神的な眼でそれを見つめ、見渡すこと― これが文化人たちを作り出す。彼らがその国民に序列を与えるのである。フランスとイタリアでは、貴族がこれを行なった。貴族がこれまで一般に精神の貧困者に属していた(おそらくもはや長いことではあるまいが)ドイツでは、司祭や、教師や、彼らの子孫がこれを行なった。 曙光 198 少し昔までの日本では、「わかりやすい普通」が作られていました。エコノミックアニマルと呼ばれたりして、愛社精神を持ち、ひとまずがむしゃらに働く人が賞賛されていました。モーレツ社員とい

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「今」に集中することと今をスタートとすること

「今」に集中することと今をスタートとすること、ということで以前にサイト内検索で大人気だった「今  集中」というようなことについて、哲学カテゴリとして少しだけ書いていこうと思います。 「今ここに集中する」みたいな感じで、欧米でも流行っているようですが、あの手のものは所詮と言っては何ですが、「フィットネス代わり」に瞑想を取り入れているという感じで、カルチャースクールのヨガ教室程度のレベルの話に終わっていると思います。 あの手の話における「今。ここに集中する」は、ストレス軽減や集中力アップ、思考の抽象度を上げる、心理的盲

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威厳と無知の同盟

そうだ、われわれの無知と、知識に対するわれわれの渇望の乏しさとは、威厳として、性格として、肩で風を切って歩くことを見事に心得ている。 曙光 565 文末 威厳を欲することはありませんが、社会の中で過ごす場合は、威厳がモノをいう時があります。それは蔓延する体育会系思想、儒教思想的なものの影響が大きいでしょう。こうした威厳のような権威性は、儒教思想下にある場所以外でもどこの地域でもあるようなことですが、 「威厳がある方が何かとやりやすい」 「威厳がないと相手に慢心が生まれ何かとやりにくい」 ということで、「オレがオレが

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啓蒙主義に対するドイツ人の敵意

過去のものの完全な、また最も究極的な認識という外見のもとに、認識を一般に感情の下に押さえつけること、そして― 自分自身の課題をそのように規定したカントの言葉を借りていうと― 「知識にその限界を示すことによって、信仰に再び道をひらいた」ことは、決して少なからぬ一般的な危険であった、ということである。われわれは再び戸外の大気を呼吸しよう。この危険の時は過ぎ去った! 曙光 197 中腹 啓蒙主義(けいもうしゅぎ)は、封建・地主思想やキリスト教を前提とした思考方法、世界観を批判し、なるべく純化された理性による人間性の解放を

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最も個人的な真理問題

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序 「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うはずですが、誰もその疑問に答えてはくれず、その先自分をごまかすように大人になっていきます。 「これが答えだ」と束の間の錯覚を覚えることもありますが、寝て覚めればそれもなんだか色褪せ、また

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不足の中にある精巧さ

ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない!その鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう! 曙光 85 世を見渡してみると、「結局何がしたいんだ?どうありたんだ?」としか思えないような構造がよくあります。 何となく世間では良しとされている中間ゴールのようなものを盲目的に目標として、こなした先にあるのはただの疲労、というような構造です。 元々、人間にも飢餓に対する戦いがありました

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「うつ」を自力で克服する

「うつ」を自力で克服するということという感じで、根本的なことについて少し書いていきます。いわば「治るときはすぐに治ります」の純粋な続編ですね。 「うつ、もしくはうつ気味の方へ」というカテゴリの中の投稿数はそれほど多くありませんが、一応毎度毎度いつもよりは力を込めて書いていたりします。なぜ今まで書かなかったのは自分でも不思議ですが、どうしてこんなテーマを取り扱うことにしたのか、という点をもう少し仔細に書いておきます。 もちろんこのブログは広告なども付けていませんし、胡散臭いメールマガジン登録(笑)も一切する気はありま

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いわゆる古典教育

われわれはあの詩を、しばしば感動して真に受ける。 「運命よ、お前に従おう! 心のすすまぬときも、そうしなければならぬわたし 吐く息も悲し!」 曙光 195 序盤抜粋 どうしても何となく調子が悪い時があります。そうした時には「風の流れが変わるのを待つ」ということをした方が賢明です。 風向きが悪い時に踏ん張り続けるとロクなことがありません。 しかしながら「待つ」というときにもやることはあります。 それは、ひたすら気を落ち着かせることです。 一ミリでも気分が良い方向に向かうように舵だけは切らねばならないのです。 仕事の時

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その幸福もまた輝かせる

実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561 前半 生きていると「嫌だなぁ」と思う瞬間も多々あります。しかしながらそれがコントラストとなったり、また、新しい意図のきっかけにもなります。 嫌な上司にあたると、その上司との関係性を良

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名とすべて

どうしても昔から「終わり」に対する嫌悪感がどこかにありました。それはアイツとして一つの死を意味するということでもあり、そして次に来る未知への恐怖でもありました。 ― 雑記第100投稿目記念として、長文かつほとんどの人には理解できないかもしれないような感じで書いていきます。哲学テーマでもいいのですが、雑記にしておきます。 分離 ある時から分離が始まりました。 友だちになれると思っていたら、どうも友達にはなれなかった。 そんなことを経験したことは数知れずです。 友達だと思っていた人が、自分の知らないところで変わってしま

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贅沢

贅沢癖は人間の心の奥底にまで及んでいる。余計なもの、過度のものは、彼の魂が最も好んで泳ぐ水であることを、この癖は示している。 曙光 405 贅沢を感じている時、おそらくそこには「我慢」や「妥協」がありません。 贅沢だと感じるレベルもあると思いますが、そのレベルに応じて我慢や妥協、身体的苦しみが少ないはずです。 「たまには贅沢がしたい」 と思う時は、その裏側に積もり積もった我慢があるはずです。 ただ、贅沢と我慢の関係を見ても、そのまま対義的な関係にあるわけではありません。 なぜなら贅沢だと言いつつも、一般的な贅沢に虚

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諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。 諸行無常について、仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そうい

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第1000回投稿記念

これで1000記事目になります。1000回目の投稿ということで「第1000回投稿記念」です。桁が一つ増えました。なお、ブログスタートから3年半くらいです。 前回の第900回投稿記念は、2017年8月13日だったので、前回からの100記事はまあまあの速度で投稿したという感じです。その前は、1年3ヶ月かけて100記事でしたが、今回は早かったですね。 今回の投稿記念の回は、「桁がひとつ上がったぞ」記念ということで、またまた日を分割して書いていきます。そして、さらにいつもと違ったような感じで書いていきましょう。 さて、常連

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廻り道をして

この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序 哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。 誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれがそれぞれの表現で、それぞれの思考ルートをたどって行くことになるのでしょう。 ただ、最終的には小学一年生の問題集から、ノーベル賞くらいの発見をするような形で飛び越えることになります。

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悪く考えることは、悪くすることを意味する

悪く考えることは、悪くすることを意味するということで、「悪く考えること」についてでも書いていきましょう。 意識の中には遮蔽効果があります。五感からも、意識からも大量の情報がやって来る中で、省エネルギーのために、「すべてを見ずに一部のものだけを見る」ということが起こっています。 そういうわけで「悪く考える」ことは、ある種無属性の対象の中から「気分を害するもの」を中心に意識に上げ、「悪くする」ことを意味するという感じにもなります。 そして、一般的に悪いことが起こった時、その結果を操作しようとします。 しかしながらよくよ

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自己弁護する

多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399 自己弁護することにはさまざま弊害があります。それが正当そうに見えるようなことであっても、どこかに自己欺瞞があります。 自己弁護とは、もちろん自分をかばう目的で言い訳がましく弁護することです。概ねプライドを守るためという感じで、つまりは自尊心の保持のためになされます。 根本的に自己弁護をするということは自己弁護の動機があるということです。その動機の裏には、何か

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「真理」のために!

「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであることも証明しないこと、真理は真実とは違った証明がなされること、そして後者は全然前者の論拠ではないことをどうか学んでくれ! 曙光 73 たまに「社会的に考えてはいけない」というようなことを言

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