芸術を別様に感じとる

人々が孤独でありながら交際し、吸収しながら吸収され、深く実り豊かな思想を持ちながらも辛うじてその思想を抱くだけで生きる時代となって以来、人々は芸術からもはや決して何も望まないか、あるいは以前とは全く違ったものを望むかである。 曙光 531 前半

そう言えば先日、今 敏さんが出演されている番組の動画を見ました。20代前半の頃に「妄想代理人」を観てからというもの、一気にハマり、全作品を観ました。既に故人ですが、大好きなアニメ映画監督です。

今敏さんも、そして僕の周りの全ての芸術系の人達が口を揃えて語るのが、「審査員を意識しすぎ」です。

短期的にはそれが通用する場面もあるかもしれません。

現に島田紳助さんは、B&Bの島田洋七さんの漫才などのセオリーを抽出し、当時ツービートやB&Bなどと同じく、16ビート漫才で世に出ました。

ただ、それが長続きしないことも理解していました。

これはどんな分野でも同じですが、アイツの機能にまんまと嵌められてしまう典型パターンで、成功モデルから条件を抽出し、パターン化しようとする試みです。

マンガ等々でも、出版社側の担当者など作り出した「条件」によって、才能が潰されている事がよくあるようです。

「学園モノで可愛い女の子の主人公の周りにカッコイイ男をたくさん並べろ」

みたいな感じですね。

音楽でも

「英語で歌詞を書くと売れないし、カラオケ印税も期待できないんだよ!」

と制限を作っていく人が多いようです。

良かれと思って言っているのでしょうが、よほどの達人でない限り適切なアドバイスというのはできません。

だいたいは条件による「制限」をつくり、その内側でしか発想できないようになってしまいます。

突き抜けている表現

技量が追いついていなくても、抽象的な地点での感性に面白いものを持っている人が作ったものは、どこかしら表現が突き抜けています。

そして、おもしろいことに、突き抜けている表現というものは、突き抜けている人しか理解できないという属性を持っています。

だから本来は審査員も本当のトップのみである必要があります。

しかし、書類選考などで最初に「素人に毛が生えたような人たち」が篩いにかけてしまいます。

こうして、マイノリティである天才は、なかなか世に出てこないのです。

トップクラスの人の目に触れるためには、まず「素人に毛が生えたような人」の御眼鏡に適う必要があり、そのためには変な条件を押さえている必要があります。

逆にトップクラスの人に才能を見抜かれてしまうためには、そうした条件を無視してのびのびと表現する必要があります。

こうしたジレンマによって、才能が潰されていっているのです。

社会はどうあるべきか

ただ、人様の会社に世話になろうと思うとなかなか難しいものがあります。

相手には株主もいますし、担当者としては「なんでこんなもん採用したんだ?」という責任追及のときの言い訳が欲しくなります。

一方、自由にしようと思って会社などを作ったりしても、芸術に属する分野の人が経済社会でうまく会社を運営するのも難しいものがあります。

そういうわけで、社会の中である種必要なのは、役員会を飛ばしてGT-Rの開発に踏み切ったカルロス・ゴーンのような人です。

計算上の合理化で言えば、高単価の車の開発はリスキーです。

普通に考えて、「言い訳しやすい」ことを最優先すれば、もっと売れそうなファミリータイプのものを作りそうです。

でも、周りを無視して開発に踏み切りました。

彼は、表面上にある、計算できる領域以上の価値をGT-Rと開発チームに見出していたはずです。

作り手側はどうあるべきか

一方、作り手側はどうあるべきかというところですが、ゴーンのような人がいることを知り、一切の条件を無視して、作り続けるべきでしょう。

目の前の担当者や審査員の顔色をうかがう必要はありません。そんなことをしても混乱するだけです。

何かしらの気付きがあればそれでいいですが、対話すべきは芸術、そして己の内側です。

芸術を別様に感じとる 曙光 531


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