精神に対する誇り

誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。

これが私の生きる道

昔、学校で渡された「これが私の生きる道」といった類の短い文集的なものに次のようなことが記されていました。この文集は全員の分が記載されているわけではなく、一応公募みたいなものです。選考があって、通過した人の文だけが記載されるような類です。

「アフリカ系アメリカ人として誇りに満ちた生活」

こういうことを書いて、応募した場合、それを採用しないのは「人種差別だ」と騒がれるかもしれないという無言の圧力で先生は採用したのでしょう。そういう違和感が直ぐに沸き起こったので、この文を書いた人は卑怯だと思いました

「誇り」とは何なのか

そこで少し考えたいのが「誇り」とは何なのか、ということです。特にこのアフリカ系アメリカ人を指して言うわけではなくて、みんなが言う「誇り」とは何なのか、という点です。

誰かに主張するということ

少し違った表現であれば、誇りとは「自分で自分を褒めてあげたい」という意味不明なインタビューの答えみたいなもので、その誇りや褒める、といったものは、一体何のためにあるのか、ということです。それを誰かに主張するということは、何か意味があるのか、というようなことです。

自分がその特性を持ち、その特性を好き好んだり、受け容れていて、というところまではいいですが、その先には某かの優越感や、逆に劣等感を覆い隠すような試みが垣間見れます。

相手や第三者に対する誇り

これが相手や第三者に対するものなら少し事情は異なります。

昔、あるコントでモデルになった方の息子さんが、最初はそのコントを遺憾に感じてらしたようですが「今でもお笑いの世界で題材として使われるということに対して、ひとりのコメディアンとしての父を誇りに思います」といった旨のことを言われたそうです。

「誇り」の使い方としてこのような使われ方なら、何の違和感も感じません。ただ、私事に対してこの言葉を使ってしまうと、やはりただの優越感、高慢、後ろめたさへの自己説得、そして「誇りに思うようなことだからそれを根拠には攻撃しないでね」になってしまいます。

一般的な「誇り」は「驕り(傲り)」ですからね。

しかしながら、相手や第三者に対する誇りですら、時に悪用されます。

それは、相手と同化することによって「自らを慰めよう」とする動機から起こる誇りです。誇りといっても、たとえば、進学校に行った我が子を誇る事によって優越感を得ようとする場合があるからです。

誇らしげな賞讃には、その奥に弱者ならではの劣等感が潜んでいます。

誇り?

最近では、またどこかの偉い人が「ゲイであることを誇りに思う」というようなメッセージを発信しましたが、どこがどういうふうに誇りなのか説明して欲しいですね。

誇りとはどういう意味なのか、よく考えてからそういう言葉を使ったほうがいいと思います。

脅迫的ルサンチマン

残念ですが、「僕達のような人を非難せず、多様な生き方を認めるのが、あるべき人間の姿ですよね?」と、周りに認めてもらおうとしている弱者ならではの言い訳臭さを感じます。ある種の脅しであり、奴隷精神であるルサンチマンとも取れるような発言です。「そういう解釈もあることを認めるのが素晴らしい人間ですよね」という脅迫です。

「誇り」という言葉に隠された、弱者 ―「精神の弱い奴隷精神を持った人」のもつ自尊心の欠落と、その穴埋めとしての社会からの容認への渇望は、決して褒められるものではありません。

別に人に言うのはかまいませんが、「誇るようなこと」ではありません。

精神に対する誇り 曙光 31


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