第600回投稿記念&祝一周年

これで600記事目になります。ということで第600回投稿記念の回かつ当サイト一周年記念です。

常連さんいつもご高覧ありがとうございます。年間を通しての変化やサイトの成長を見守っていただきありがとうございます。おかげさまでサイトボリュームも膨大に、インデックス数は1200ページを超え、アクセス数も開設三ヶ月目と比較すると8倍ほどになりました。

少し最後に調整した感はありますが、サイト開設一周年記念の本日、記事は600になりました。ちょうど年間600なので平均1.64ページほどの更新率です。と言ってもハブページなどもありますので、純粋なページはもう少し少なそうです。しかしながら画像単体のページを含めるともっと多い更新頻度になりましょう。我ながらよく指が動いたものだと思います。

昨日3/28までは宝探しゲームをしていました。まだ残骸は残っていますが、一応ゲームは終了です。

最初にご連絡くださった方が、京都の方です。ということは、あの不可解なカラーコーンのことをご存知かもしれません。

アクセス数は地元ということもあってか、東京の次に京都が多く、それ以降はほぼ人口順になっています。これは検索エンジンの最近の流れである、「地域に合わせた検索順位の変動」というものが関与しているのかもしれません。

ということでIPの確認をしても、ゴールページヘの到達、つまり達成者の方は「意外にも京都の方だらけ」、ということになっています。

ご参加いただいた方々どうもお疲れ様でした。そしてありがとうございます。

今回も投稿記念の回かつ一周年記念なので、いつもと違った趣で書いていきましょう。第500回投稿記念の時と同じく、「タイトルが『第600回投稿記念&祝一周年』の割に無駄に長文」という趣旨で書いていきます。

サイト内検索

サイトの検索ボックスというものは普段はほとんど使われないものです。しかし一周年記念ということでアクセス解析をまじまじと見てみると検索引数が付いているアクセスがちらほらありました。

その中の一部のキーワードをご紹介するとともに、ここで感謝の意を述べさせていただきます。少し笑わせてもらいました。

  • Z会
  • セックス
  • 絶倫
  • 薄口
  • ○玉

性に関するテーマについてはほとんど触れていませんが、みなさんの関心ごとの一つであることは推測がつきます。いくらでも書いてもいいのですが、書くとしても限定公開にしようと思います。

一つのポイントは、物理的な刺激や触覚からの信号というよりも、感覚は記憶やその場の意識を含めて複合的に合成されているということです。

それはさておき、次のようなものもありました。

  • 上下関係
  • 管理者
  • 管理しやすい

いつもそんなことばっかり言っているからでしょうか。

  • 怒り 排除
  • 嫉妬 羨望
  • 自尊心
  • アファメーション
  • 横柄

これもよく使うワードですから、むしろ検索していただいて、ありがたいようなワードです。

  • 憲法
  • 知性的
  • 特殊論
  • 推測された類似性

比較的学術よりです。しかし、憲法については、詳細には触れていないので、特に勉強になるような内容はありません。

  • A層
  • B層
  • C層

たまにB層という言葉を使うからでしょうか。そういえば特に一般的な定義自体を説明していない、という事に気づきました。こういう検索結果があると、言葉が足りないことに気づきます。また追々修正していきましょう。

  • 東京都
  • 京都大学
  • 東京大学
  • 産業大
  • 仏教大

なぜか東京だったり、個別の大学名などでそこそこ検索されていたようです。出身大学筆頭に、個々の大学については特に触れるつもりもありません。

  • 自称芸術
  • 肉体詩人
  • 薔薇薔薇
  • V6

これも少し笑わせていただきました。ちなみに「肉体詩人」は検索すると出てきますからイメージ検索などをしてみてください。「V6」はおそらくV6系ブルーハーツのページをもう一度見つけるため、というような理由でしょうか。特別企画のものに副題などは付けないので、メインの内容がタイトルからは外れたりすることがあります。

  • 信長
  • 信長の野望
  • 桃鉄
  • 桃太郎電鉄

実は「信長」というキーワードの検索回数が異常に多く、「別に信長フェチじゃないぞ」と一瞬思ったのですが、信長の野望というものも出てきたので、「ああ、そういうことか」と納得してしまいました。

他にもたくさんありますが、意外と検索ボックスも使っていただいているのだということがわかりました。これからもまだまだ記事数は増えていきますから、より意味のある機能になっていくでしょう。画像ページは検索対象に入らないというのが少し残念です。

さて、今回は一周年記念です。もちろんその日に書いているわけではないのですが、日を調整したこともあってか時間に余裕があります。ということで、残された期限までに、無駄のようなものでもどれだけの文字数のものを書くことができるのかということに少し興味があります。

普通は記事の内容としてほとんど単一のサイトテーマであるほうが専門性が高いという評価がありますが、軽いノイズのようなものがあるだけで評価しないというのならば、別にそれでもいいでしょう。

例えば会社の公式サイトに、旅行記として数ページあるくらいなら、会社が専門としていることに特に影響はないと思います。厳格そうな本でも、あとがきなどが結構ラフだったりします。もし多少の遊びで、メインに影響を与えるのであれば、どんな「遊び」も許さない厳格な息苦しい世の中になってしまいます。

 この1年での変化

変化しないでおこうと思っても、嫌でも変化はしていきます。それはサイトだけでなく、すべての現象が常に変化していきます。

どうしても規模が大きくなるにつれて仕組みは変えていかねばなりません。このサイトでも、1年である程度の数の文字数が、インターネット空間に吐き出されました。文字の量が多くなるにつれて、ある種の文字列はその重要度が薄まり、またどこにあるかわからなくなっていきます。これが物理空間なら掃除をして、重要度の低いものは廃棄されたりして、空間を広げて検索時間を短縮する、ということしかできませんが、インターネットという情報空間では、その空間が無限であるため、ある程度の工夫で目的まで用意に到達することができます。

サイトの変化としてはカテゴリ数の増大などがあります。いろいろなものを分割統合するのも簡単ですが、目標到達が容易にできるのだからその分の手間を情報増大に費やそうかなぁとも思います。

世の中では要約しろ、なるべくわかりやすくしろ、という流れと、同時にほとんど無価値のものを切り捨てろという流れがあります。検索エンジンの世界では、インデックスさせないというようなものですが、実際の情報自体が持つ価値は文字数ではありません。

たった一行や、数行の文章が、時に大きく人生を変えてしまうことがあります。

実際はその文字列が変えてくれるわけではありません。

しかし、振り返ると、短文で、ごちゃごちゃ説明のないものであっても、単純明快だったり、解釈の幅、捉え方の多様性があるお陰で柔軟に意味合いを持つ、ということがあります。

だからといって、短文ばかりでアーティストぶるというのも変な話です。

それぞれの表現方法には、それぞれの伝え方があります。それぞれが、それを受け取りやすい感受性を持った人に何かを伝えるということはいいですが、方法論だけ真似ても仕方ありません。

てんでバラバラのようなことはしませんが、散文、短文というものも用いていくかもしれません。

論理性と理解

論理性ばかりでは出だしから匙を投げてしまうこともあるでしょう。しかし、論理からも逃げてはいけません。理解できるが執着しない、と、最初から理解すらできない、というのは似て非なるものです。

それが進むと理解する必要がない、というころも追々実感してくるかもしれません。しかし、ハナから投げているわけではなくて、なぜ理解する必要がないのか、知る必要がないのかという、出だしの説明ができる、ということは、ただのめんどくさがりとは全然違います。

この一年の間もたくさんの人と出会いました。しかしもう誰からも教わることがありません。実務のような情報や、異業種での方法論、というものは教わったりしていますが、それは社会の中での自分が、社会の中での役割として勝手にやっていることです。それは僕であり、僕ではありません。

特に講義のようなものを聴くと、最初は実務的でもだんだん精神論のような話になっていきます。それはそれで仕方ないことです。しかし、精神論のような話になった途端に、「もう教わることはないのに」と思ってしまいます。

いろいろな方がいろいろな態度のあり方などを教えようとしてくれるたびに、少し申し訳ないような気分になります。申し訳ないというより、悲しさのような気持ちがやって来ます。

その場で、異論のようなことを唱えても、たいてい理解もされないでしょう。そしてもしかしたら、相手は傷つけられたと感じて、怒りを覚えてしまうかもしれません。敵対されることを恐れはしませんが、いたずらに怒りに燃えさせるということはしたくはありません。それに相手は、こちらに対してよかれと思って言ってくれていることです。しかし、その気持ちとは裏腹に、全て錯覚の意見です。そのような場で、まともな意見を発表してくれた人は、未だに一人もいません。

実在と自我の全肯定が前提の「意見」

よく「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という事をいう人がいます。

他人も自分も、過去も未来も、迷妄であり実体はない

以上で話は終わってしまいます。

それでは納得しない人がいるのでもう少し。

実体なき虚空のものなのだから、変える変えないの議論はできない

ある視点によっては、変えることはできる、そしてある視点では変えることはできない

他人は、自分の五感から得た印象を自分の意識が映しだした実体なきものであり、自分は、外界との関係性の集大成であり、意識は情報の集合であり、思考は演算であり、感情は反応であり、瞬間瞬間に前の状態が原因となって表れている結果であり、記憶は記憶であって実体はない

過去は記憶であり、未来は想像であり、過去は記憶を思い返している今現在の状態であり、未来は今現に想像している架空の世界であり、実体はない

他人も自分も過去も未来も、実体なきものなのだから、変える変えられない以前に、存在していないただの印象なのだから、議論するにも対象がない

というようなことを相手に言っても、理解すらされないでしょう。

されなくても構いません。していただかなくても何の問題もないのですから。

そのようなことで、憂いもありませんが、人と関わることも少なくなりました。実務的なことを考えても、たくさんの矛盾点が残ってしまいます。それはそれでいいのですが、実務的な提言との整合性を気にして、混乱してしまう人がいますから、普段は聞かれない限りあまり話すことはありません。

生活での変化

本当に欲しいものがなくなりました。何か贅沢品のようなものを見ても、それはそれでいいものの、それがもたらしてくれるもの、それだけしか見なくなりました。

特に消極的になった、というわけではないのですが、僻みでも何でも無く、無駄に思えてきました。

「カッコいい」と言われて、カッコいいと思われて、それでそれが何なのだろう?

というようなことです。既に5年前くらいからは思っていましたが、それが極めつけになってきました。

飯がうまい、それがどうした。

というようなことすら思っています。

ただ、何かを作る時は、最大限に美味しく作るようにはしていますが、味覚といったもの、もうそういった直接的な刺激すら、特にこだわることもありません。店の雰囲気などもっとどうでもいいことです。

そんなことで自分の気分が変わってしまうのなら、もし変化してしまったのなら、対象を直接変えるよりも、自らの心を追うでしょう。

約12年前、いやそれよりもっと前から、唯一の関心ごとは、心だけでした。結局、どう転んでも心がどう感じているか、ということですから、誰しもが心にしか関心がない、というのが本当のところでしょう。

しかし、その騒ぐ心、時に苦しんでしまう、苦しみというものを感じてしまうのをどうやって解消するか、その方法論をずっと模索し、物理的に操作するしかないと、考えていました。

実際に、苦しさが解消されるならどんな手でもとろうと思いました。モテることか、それならばカッコつけてモテてやろう、遊ぶことか、それならば遊んでやろう、学問を極めて謎をなくすことか、それならば、たくさん勉学に励もう、お金を得ることか、それならばたくさん仕事をして稼いでやろう、肩書や名誉を得ることか、それならば会社の一つでも作ってやろう…

しかし、何をやっても、何をどう頑張っても、束の間の安心感で、またすぐに苦しみがやってくるという煩いを持ち続けていました。

何でもできそうな高揚感が訪れても、寝て起きれば少し減少し、泥酔でもして頭痛と共に目覚めれば、また元の木阿弥、ふとした急展開などが起こって必死に対応していれば、それまであったような強い心持ちはシナシナになっていきました。

しかしながら、もうそんな風になることありません。数年前から、完全に大丈夫になってしまいました。

ある時、10日間ほど連続して続いた頭痛が、ある瞬間にさっと消えたあの瞬間以降、それまでとは違った世界が広がっています。

ぱっと見は同じ、でも全然違います。

誰かに何かをされたわけではありません。誰かに何かを教えてもらったとか、「何かが降りてきた」というものではありません。自然にそうなってしまいました。

その頃から、それまでの様々な謎がどんどんと謎ではなくなっていきました。

しかし、未だにわからないことがいくつかはあります。しかし、それはやがて見えてくるでしょう。やがて見えてくるのだから、もう既にそれはあるということです。

どうせいつか終わる

さて、無駄に長文です。

現在5000字を超えました。一周年記念ということで、日を分割して、個別にしてもいいような内容をあえてひとつにしています。

いわば、書きだした頃から公開日まで、ちょろちょろと追記していっています。たまにはそんな試みもいいでしょう。

かつてまで、意志を次世代に残すといえば、口伝か書物が限界でした。それでも余程のものでない限り、時代とともに消えていくのが宿命という感じです。

このサイトも、ドメインやサーバーの関係で、いつかは消えてしまうかもしれません。しかし時代が進んですべての情報を誰かがアーカイブ化するということも考えられます。先日ふと思ったのですが、これは自前で運営している場合の話です。まだインターネット自体はそれほど歴史が古くないので、今後どうなるかはわかりませんが、レンタルブログなどの場合、仮にその運営会社が破綻しても、サービス自体はどこか同業などが買い取る可能性があります。

ということは会社が潰れてもレンタルブログ自体は存続していく可能性があります。

ということは、何十年たっても、なかなか検索には引っかからないものの(しかしながら時代が進めば検索ももっと高度になるでしょう)、ブログコンテンツを削除しない限り、その人が死んだとしても、その人の書いた内容は地球が滅亡したり、人類が絶滅したりしない限り、存続していくことになるでしょう。

そうなると、たとえば自分がおじいさんになった時に、孫やひ孫などが自分の若い時のブログを探し当てるかもしれません。それが普通の内容なら別に構いませんが、彼女にふられた日の悲しい出来事を綴っていた場合、赤裸々です。写真など残っていようものなら、「ほう、これがばあちゃんと出会う前に付き合っていた人か」などと見られてしまうことになるでしょう。

これが何百年も続けば、何十代も前の先祖の「高校ライフ」などが見れることになります。そう考えると恥ずかしいと同時にある意味で夢が膨らみます。

もし、もっと前にこんな時代であったなら、絶対に自分の両親や祖父母のブログを検索していたでしょう。残念ながら、自分の先祖の文は見ることができずに、「見られてしまう可能性のある第一期生」という世代になるでしょう。

生き物は、自分の遺伝子を残そうという本能をもっています。自分がいつか死ぬならば、自分のコピーを作ろうというものです。しかし遺伝を情報とするならば、新しい形の遺伝子の残し方です。「ブログを書く」という、このような行動ももしかしたら無意識的な、本能としての行動なのかもしれません。

例えばサーバーが壊れた場合に対応するように、バックアップを数箇所に設置する、一箇所に集中させずに分散してバックアップを保存する、究極的には月面にだって設置して無線で飛ばすことも可能になるでしょう。そうすれば、データはずっと残っていきます。

どうせいつか終わるとしても、下手をすれば地球滅亡というより人類滅亡まで終わらないかもしれません。やっていることは、本能的な遺伝子を残そうという行動と同じです、終わるタイミングももしかしたら同じ時期かもしれないという偶然の構図です。しかし、もし宇宙人がいて、そのデータを解読できる能力を持っていたら、人類滅亡より後でも、情報は残ります。そうなると可能性的には、人類の歴史より長く、自分の情報が残ることになります。

歴史に名を刻みたいという気持ちは、自尊心だけの問題ではなく、以前であれば口伝や書籍、地名、「お札に印刷されたい」、「カラオケに曲を収録されたい」など、こういった情報としての遺伝のような存在の残し方を狙った本能的欲求なのかもしれません。

ちょっとした可能性的想像のお遊びでした。

隣の客がだいたいおもんない

食事に出かけたりすると、やはり近くの席では別の客がいるわけですが、嫌でも声が聞こえてきます。それに苛立つことは特に無いのですが、だいたいの騒いでいる客の会話は「おもしろくない」という印象をいつも感じてしまいます。

騒いでいる人は、その勢いで何とかしているだけで、おもしろいわけではありません。本当に面白ければ、隣で聞いている人も笑ってしまうはずです。

そこで、もし問題があるとすれば、その楽しさを面白いことと勘違いしてしまうことです。しかし再現不可能な笑いは、面白いことではありません。他の人に聞かせて、誰も笑う人がいないのならば、それは面白いことではありません。

そのような笑いで、本当に爆笑しているかのように笑えるのが不思議です。どういう思考回路で、笑いが起こっているのか、だれか研究して欲しいくらいに、なぜそこまで笑えるのかわかりません。

それはこちらが不快だから笑えないのだろう、ということではなく、不快とかを度外視して、「どこに笑う要素があるのだろう」と真剣に考えているのですが、いつもイマイチつかめません。

それは生まれて初めて「笑点」を観た時に感じた違和感と同じようなものです。

二周くらい周って面白く感じている人は、その純粋な当事者としては参加していないはずです。どこか冷めた目で、どこかはにかみながら、その場をうまくやり過ごすでしょう。

大昔の勤め先に、高校生か大学生くらいの人がアルバイトに来ていました。あまりに能率が悪いのですが、叱ってばかりいてもしかたがないということで、上司がほんの少し褒めるということをしました。

するとその人は、

「はい!僕、やったらできる子なんで!」

と声高々に喜びました。

すると上司は、ほくそ笑みながら、「これもすごいね」「あれもすごいね」と褒めちぎるということやり始めました。

それをまともな会話だと思っているのはアルバイトの人です。

それと同じような現象が隣の席で起こっており、冷めた目で傍観しつつも雨ニモ負ケズのように静かに笑うことを趣味としていましたが、それももうどうでもいいことです。

さて、8000字ほどに到達しましたのでそろそろ結びに入りましょう。

おむすび

本投稿は、開設一年目の最後の投稿であり、二年目最初の投稿でもあるという性質を持っています。

あまりに散文で、何のコンセプトもないような回になりましたが、コンセプト的なものが流行りだしてから、コンセプトに縛られているという傾向があります。

しかしその流れは、一つの意味合いを持っています。

それは、世の中には本当に支離滅裂で何を話しているのか、自分だけが理解しているというタイプの人がいます。下手をすれば自分でも何を話しているのかわかっておらず、ただ、頭に浮かんだ言葉を人に話してしまうというタイプですが、この手の人へのいらいらが、「まとめなさい、重要なポイント、テーマを絞りなさい」という流れを押し進めました。

しかし、それにだけさらされてしまうと、わかりやすくない、要約されていないものへの読解力というものが養われず、なんでもあらすじやレビューのようなもので満足してしまうという事が起こってしまいます。

解読する必要のないもの、つまりただ単なる情報であれば、それでいいのかもしれませんが、情報を少なくすることによって、相手を自分の都合に誘導したりしようとする人もいますから、やはり、そういった情報でも、矛盾点や確認しておかねばならないような点は必ずあるはずです。

例えば、確かに悪影響がありそな事柄でも、その触れている時間や摂取量などがどれほどの悪影響を与えるのか、ということをさておいて、ひとまず「悪い」とだけ要約し結論付ける場合が最も危険です。

また手品の時の意識の向かせ方のコツのようなもので、ある大きな印象を与える、というパフォーマンスをしておきながら、細かく気付かれにくい形で相手にとって都合が悪いことを同時にひっそりと忍び込ませるという手口もあります。

さらに、共通の定義すら無いのに、定義がずれている状態で、いくら議論しても水掛け論になります。わざと共通の定義を定めないという手法をもって事をウヤムヤにしようとする人もいますから、そういう点には気をつけたほうがいいでしょう。

支離滅裂で何を話しているのか、自分だけが理解しているというタイプの人に対する、混乱、困惑、いらいらの原因は、「思考の出だしが途中から」という点が最たるものでしょう。

その人はその人が使っている単語をどのように定義しているのだろう?

その定義付けが曖昧なまま話を聞いても理解もできず誤解だらけになっていきます。

抽象か具体かで言えば、抽象化して具体化、つまり本質の純度を上げて、明確にしてから個別の話をしていかねばなりません。

その人が考えている「愛」とは何なのか?

それを知るには、質問していくしかありません。

相手が他人でもイライラしますが、自らの中にモヤモヤがある場合は、自分の中でも定義が曖昧なことが多いでしょう。

辞書をひいて知るということもいいですが、そんなことよりも、自分はそれについてどういった印象、定義を持っているのか、それは真剣に考えたほうがいいでしょう。他人に説明するためではなく、自分の思考の暴走、ショートを防ぐためです。しかし結果的にも他人への説明もうまくいくようになります。

特に自分がこだわりを持っているようなことについては、確実にどういう定義があるのかを自ら知った方がいいでしょう。

どう転んでも定義は行き詰まるはずです。それが言語である限り、必ず行き詰まるでしょう。しかし、それで構いません。

さて、おむすびこと結びの場になりました。もう少しで10000字になるので、一応そこまでは書くことにしましょう。

これからは最後の章について「おむすび」とするかもしれません。

そういえば今は3月、何かの節目によく使われるシーズンです。

昔は節目が嫌いでした。本来は節目というものは存在しませんが、なぜ社会ではわざわざ区切る必要がある場合があるのか、と思っていましたが、無理にでも節目を付けないと、人はなかなかずるずると同じ環境に居続けようとしてしまう、という事への一種の戒めなのかもしれません。

区切りがあって、新たなる環境に、という場合は、名残惜しんだりしますが、ズルズルジリ貧にフェードアウトしていくと、そこには何の名残惜しさもありません。

義務教育などの間は、相手や社会の都合ですが、その先は勤め人ならばまた同じような区切りはあるものの、そうでないフィールドでは特に区切りというものは社会の中でもそんなにありません。つまりは続けたければずっと続けていい、ということになっています。

ただ、区切りをつけ、新たな環境に飛び込んだほうが、実質的に新しい経験が待っていたりするものですが、たいてい頭は、「ひとまず今ある環境もそれほど危険ではないので、このままがいい」と思ってしまう、という特性を持っています。

環境を変える必要も、変えない必要もありません。

そこには他人の意見は、参考資料としてもらってもいいですが、採用するのは自分です。

誰にも指図されること無く、自ら意図した方へ、向かっていこうではありませんか。

嫌でも、意図した方向へ向かいます。

さあ誰にも指図されること無く、飛び込んでいきましょう。

自らの深い深い内側へ。

そこは何人にも侵されない、自分すらも侵すことのできない領域です。

さあ飛び込みましょう。

「自分」すらも入り込むことのできない、自らの内側へ。


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