真理は力を必要とする

たとえ口の上手な啓蒙主義者がいかにその反対を言うことに慣れていようとも、― 真理はそれ自体では断じて力ではない!― 真理はむしろ力を自分の味方に引き付けるか、あるいは力の味方になるか、でなければならない。 曙光 535 前半

社会を見渡してみると「力を手に入れなければならない」というような印象が多いですが、力は手に入れるものではありません。

同時に力だけでなく一切の現象は「手に入れる」という属性のものではないのです。

体育会系や義務教育の延長では、「努力した末に手に入れる」という構造が好きですが、こうした構造は、アイツによる錯覚です。

極論的にも見えますが、手に入れるという属性のものはなく、「受け取っている」とかいくらアイツ目線でも「受け取る」くらいが本当のところです。

少し言語的にややこしいですが、「手に入れる」という感じだと、分離後の結合というような構造になってしまいます。

今現在不足しているというアイツの持つ感想が発端です。

そして時系列というアイツがもたらす連続性と前後の相対的な比較によってしか「手に入れる」という印象自体は起こりえません。

そしてその次にはそうした印象を法則としようと試みます。

「努力して、手に入れた」という印象を

「努力すれば手に入れることができる。努力しなければ手に入れることはできない」というものに変えていきます。

また、それに関連して「努力をしないと手に入れてはいけない」という縛りを作っていきます。

そしてさらに横並びの相対的な比較によって

「努力していない人が手に入れているのはおかしい」

という無駄な怒りを生み出してしまうのです。

そのうちになぜか「努力」という言葉が「忍耐」や「我慢」というものにも変化していきます。

最初の頃は「努力」自体が、ふとした時の踏ん張りくらいだったものが「慢性的に耐えること」に変化し、僻みが生まれ、「ずっと我慢していることが美徳なのだ」と一種のルサンチマン的にすらなっていきます。

平等の解釈

「平等」ということ自体は、その言葉を解釈するにあたって、どの目線から見るかによって一種の真理にも誤謬にもなりえます。

「平等なんだから平等に世話をしてくれ、上位の存在よ」

というのが社会で一般的に認知されている平等です。

この上位の存在とは、宗教がらみなら神ですし、社会単位なら国家や行政、もう少しミクロになると会社になり、家庭すらもその対象になっています。

「手に入れる」ということになれば、例えば「大会の優勝」なども対象になります。

そうなると、それは単に大会の主催者に認められるとか認められないとかそういう話になってしまうのです。

そして競合との間での相対的な比較が必ず起こります。

それを単なる「遊びだ」と思えるのならば結構ですが、人生がかかっていると思いこむほどに同化している人もいます。

そうなると、その主催者に人生を掌握されているのと同じです。

入試、面接、営業、そして大会への参加など、全てが相対的な尺度での比較による優劣です。そして決定権は相手にあります。

決定権が相手にあるということは平等云々を決めるのも相手なのです。

学校は学力をつけるところなので、一般入試だけが正しいはずですが、スポーツ推薦や一芸入試などもあります。でもそれは相手のフィールドなのだから相手のコントロール下にあるのです。

そして一般入試にしても、高額な予備校にいける家計なのかどうなのか、時間に余裕があるのかどうかというところはもちろん、究極的には、家と学校の距離ですら「勉強時間の確保」や「体力の温存」という意味では差があるはずです。

ということで、社会に対して完全なる平等を求めること自体は不可能です。

といっても、平等を叫んでいる人たちは、だいたい弱者であり、今あるフィールドにしがみつきながらも、少しずつでいいので条件を良くしていってもらいたいと願っている人たちです。

本当はそんなフィールドにしがみつく必要もないのですが、慣れ親しんだ「少し息苦しいが、それほどリスクもないある程度快適な環境」が居心地良く、未開の地に行くリスクを避けているのが本当のところです。

もっと良い環境が待っているかもしれないにも関わらずです。

なぜそうなるかというようなことですが、それらは「手に入れるもの」と思っているからです。

「また努力して手に入れなければならない」

ということに辟易しているからです。

しかしそれは錯覚です。

自分で努力して手に入れたなんて思っていることは、アイツこと自我の印象にしか過ぎません。

好きでもないものを好きになろうとしてもなれません。

努力して手に入れるものではないはずです。

好きになろうとして「そうそう、こういういいところがある」と確認していく作業は、好きという感情ではなく、相対的な優劣の見定めにしかすぎないのです。

好きに「なろう」としてやっていることですから。その時点で好きではないことを肯定しています。

力も現象も手に入れるものではなく既にあります。

それを受け取ることを阻害しているのは、ただ単にアイツであり、アイツが作った壁でしかありません。

手に入れるということは、自分とは切り離されているものを獲得するという事になります。

森羅万象は自分と分離はしていません。

コントロールして手に入れようと駆り立てられているということは、そうした分離とコントロールの必要性という属性をアイツがつけてしまっているだけです。

ある日突然、「ただ受け取っているだけ」そういった毎日がやってくるでしょう。

本当は既にただ受け取っているのだけなのですが、「どうもそうは思えない」という印象が剥がれ落ちていく、という感じです。

真理は力を必要とする 曙光 535


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