将来の徳について

世界が理解しうるものになればなるだけ、それだけ一層あらゆる種類の荘厳が減少したというのはどうしてであろうか?あらゆる未知のもの、神秘的なものに面したときわれわれを襲い、理解できないものの前に崩折れて恩寵を願えとわれわれに教えた、あの畏敬のいたく根本的な要素は恐怖であったからか?そしてわれわれが恐怖感をもたなくなったことによって、世界はわれわれに対する魅力をも失ったのではないであろうか? 曙光 551 前半

何となくイメージとしてですが、功徳(くどく)を積むと良いことが起こり、そして功徳を積むには忍耐が必要だというようなことが思われている風潮があります。

そうした構造はまるで、「鬼のような特訓の先には優勝がある」というような体育会系の発想です。

で、「功徳を積むぞ」というような時に、どうしても「良い行い」と「悪い行い」という分類がなされます。

功徳のイメージに関する「良い」と「悪い」

そこで考えてみたいのは、一般的な功徳のイメージに関する「良い」と「悪い」です。

大半のケースで、これを社会的に考えているはずです。

「法律に反しているから悪い」とか「常識的なマナーを逸脱しているから悪い」というようなものです。

これは大体社会というか相手目線での善悪の判断です。

それを純粋にひっくり返すと答えが見えてきます。

ただし「純粋に」というところがキーポイントです。

ある意味で完全に自己中心的に捉えなければならないのです。

純粋に自己中心的に

「誰かに迷惑がかかる」というところを基準とせず、「誰かに迷惑がかかると困ると思っている自分の焦り」に対して意識を働かせるというような感じです。

なぜ、人をいじめてはいけないのか」などで書いていますが、万人のルールの制定としてなぜ人をいじめてはいけないのかという理由を考えようとするのではなく、なぜ自分にとってマイナス要因になるのか、ということを考える必要があります。

それは社会的な「罰を受ける」とか「相手を傷つけてしまう」というようなことではなく、「相手を傷つけてしまった記憶が一生残り自分を苦しめる」というものでもなく、相手の状態に自分がコントロールされるということが自分にとってマイナスだということです。

「社会」を外して功徳を考える

一般的な功徳のイメージは「社会的に評価されるような慈善行為」というイメージがありますが、そうした「社会」を一度外して、「どうあれば自分の心が安穏であるか?」というところを考えるほうが正しいのです。

で、結果的にそれは世間で思われているような「犯罪をしない」ということと表面上イコールになることもよくあります。

ただ、その奥の動機は全然異なるものなのです。

「人を殴ってはいけない」

というが決まっているからではなく、

「怒りの感情を呼び起こした現象は、既に無く、今の怒りの原因はこの意識の中にある。この意識の中のエネルギーを解消しようとして外部に働きかけ、『何かを達成しなければならない』と条件をつけることこそが苦しみなのだ。

何かを達成しなければならないと思い、達成できてもまた次の争いを呼び起こすだろう。そして達成できなけれれば、さらに私は苦しむだろう」

という感じです。

良い現象の因果の因は「良い状態」

つまり、すごく簡単に言うと、良い現象の因果の因は、良い状態であり、その良い状態を作ることこそが功徳を積むという感じでいかがでしょうか?

その方法論として、普通は結果である現象を操作しようとします。しかし現象は操作する必要がありません。ただ良い状態であればそれでいいのです。

まあ変に専門用語にラベリングしている人を説得する気はありませんが、「功徳を積むために」という条件付け自体が、「うまくいっている/うまくいっていない」という、煩悩の元になることをお忘れなく。

将来の徳について 曙光 551

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ