洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた

洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みてみました。宗教勧誘を論破して撃退するという感じではなく、相手のフレーム合わせて、対機説法をしてみるという感じです。

普通は宗教勧誘に対して上手く断るという感じだったり論破して撃退するという感じだったりするでしょうが、僕の場合は目的が少し違っていて、追い返すことではなく、短時間で脱洗脳のタネを撒いておくことです。

先日、Twitterでこっそりつぶやいてみましたが、ほんの少し前の休みの日に我が家に宗教勧誘の人がやってきました。

それで玄関先で話すことになったのですが、やんわり断るというわけでもなく、結果的に1時間くらい話して脱洗脳を試みてみました。わざわざこちらから声をかけるということはありませんが、我が家にやってきたのでついでです。

感情を一切なくすことで、相手を感情的にさせず、冷静で理性的に洗脳・マインドコントロールを解いていくにはどうすればいいのかという一種の修行(?)です。修行というよりも慈悲の実践という感じでしょう。

なお、本ブログの常連さんにはご周知の通り、僕は一切の宗教に属していませんし、宗教まがいの変な団体にも属していません。

宗教勧誘と詐欺の違い

さて宗教勧誘の人は、詐欺師と違って、本当に相手のためを思って勧誘にやってきています。

詐欺師の場合は、相手を騙してお金を払わせようというような意図を持っていますが、宗教勧誘者の場合は、相手の幸せを願って勧誘にやってきています。もちろん信仰の実践というような自分都合の面もありますが、一応相手の事を考えているという面を含んでいます。

詐欺は自分の利益のためとあらば、相手を騙すことを厭わないという感じですが、宗教勧誘は、自分の利益と複合して相手の利益を望んで行われるものです。

ということで厄介です。

相手に本当に幸せになってほしいと願っているからこそ、それが情熱になっています。問題はその方向性であり、解釈の仕方です。だからいくらカルト宗教だからと言って本人を責める必要はありません。

ということで、騙すつもりはないので頭ごなしに怒るというのは少し違うのではないかと思っています。

カルト宗教に対する対機説法

という感じなので、宗教勧誘にやってきた人に対機説法を行うことで、脱洗脳のきっかけを作ってみました。

これは、僕の考えや「証明できない『真理』と思い込んでいること」をマインドコントロールによってある種上書きするというものではありません。

通常脱洗脳と言うと、洗脳手法を持って「洗脳の上書き」をする方法が用いられますが、別に何かの観念を新たに植え付けることを試みたわけではないのでご注意ください。

で、対機説法というものですが、これは相手のフレーム合わせて理を説くという感じです。

画一的で一方的で教科書的な理論を説くという感じではなく、相手が持つ世界観に合わせて言葉を選び、理を説いていくということです。

カルト宗教にハマっている人は、そのカルト宗教の教義の目線からしか世界を解釈できない状態になっています。

それがキリスト教系なら新約聖書の記述に沿った話でたとえ話で気付いてもらう、仏教系カルトなら根本経典となっているような経典の話を元に話をしてマインドコントロールを解いていけばいいのです。

でないと、そうした認識に関するフレームから逸れたことには耳を貸さなかったり、耳を貸したとしても感情的に反論してくる可能性があり、結局伝えたいことは伝わらなかったりします。

ということで、今回我が家にやってきたカルト宗教は、まあ有名な所ですがキリスト教系の新興宗教だったため、新約聖書をベースとして対機説法を行い、脱洗脳のきっかけを作ってみました。

宗教勧誘の始まり

それでは「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」の第一話です。

このカルト宗教の勧誘は、数ヶ月前からちらほら来ていました。

二人組で玄関にやってきて、挨拶を交わしたあと冊子を渡していくというタイプのやつです。

で、最初の頃は女性二人組でやってきていましたが、ある時おばあさんが独りでやってきて、「聖書をお読みになったことはありますか?」と聞いてきました。

まあ聖書と言っても旧約聖書と新約聖書がありますが、冊子の内容からこの場合は、新約聖書のことを指していると思ったので、「4福音書に限って言えば100回以上ありますけど」と言ってみました。これは本当ですからね。

「そうですかぁ!」とおばあさんはかなり喜んだ様子でした。

で、例のごとく冊子を渡されて、その日は帰られたのですが、それからしばらくして、おそらく「このエリアの強者」のような人を連れて我が家にやってきました。

しかし、僕はその日の前日深夜まで仕事をしていて眠かったため、ひとまず帰ってもらいました。

それからしばらくは何もなかったのですが、先日休みの日に、その「このエリアの強者」の人が単独で我が家に宗教勧誘にやってきたのです。

カルト宗教勧誘者に逆に説法する

「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」の第二話ということで「カルト宗教勧誘者に逆に説法する」です。

おそらく宗教勧誘に比較的好意的であることと、新約聖書を読んだことがあるということでカルト宗教に「脈アリ」判定をされた僕に対して、カルト教団は宗教勧誘の畳み掛けとして、「そのエリアで少し偉い人」ということなのか、強者を単独で派遣してきました。推定40代の男性です。

どうせならその宗教の教祖くらいがやってきて欲しいのですが(教祖を脱洗脳できたら、その教団の全ての人の錯覚が消えますからね)、ひとまずは地域の責任者的な感じの人が本気で勧誘にやってきました。

もちろん相手は、僕のためを思ってやってきています。ということで彼のために、単なる論駁でもなく、感情的な攻撃でもなく、彼を脱洗脳・脱マインドコントロールすることを目標として、お話をしてみました。

ということで、ここからは会話文でお楽しみください。本題とあまり関係のない会話は省いて書いていきます。

ピンポーン

宗教勧誘者「先日は、お休みのところすいませんでした。近くでイベントがありますのでぜひご参加いただきたいと思いまして」

bossu「イベント参加はしませんよ。というより団体に属するということ自体しません」

「では、新約聖書をお読みになったとお聞きしてますが、どのような信仰をお持ちですか?」

「まずね『信仰』というもの自体が、疑いを含んでいますけど、どうでしょう?」

「と言いますのは?」

「事実当然のことには疑いを持ちません。あなたが今生きているということ自体を疑ったことはあるでしょうか?

少なくとも、生きているということがどういうことか定義できなくても、今、目の前に僕がいることを認識しているということは疑っていませんね?」

「はい」

「それが、目からの情報であろうが、マトリックスのように電気信号的に送られたものであろうが、ひとまず何かは感じていますね?」

「はい」

「では、信仰とは何でしょうか?」

「聖書の真理を信じることです」

「ということは、その真理は、信仰を持たないと成り立たないということですね?

事実当然のことは信じる必要がありません。信仰で支える必要がなく客観的な証明も必要なく、今すぐに確認できることと『信じる』という事をもってしか支えられない領域の差です」

「では聖書に書かれている真理についてはどう思いますか?」

「聖書の記述自体の正当性は何によって支えられていますか?」

「真理です」

「先程言ったように、真理というからには、それが絶対確実でなければなりません。

聖書は文字で書かれたものです。ではその書かれた内容が、絶対に正しいという根拠はどこからやってくるでしょうか?

真理が書いてあるから、というのは理由になりませんよ。

それはもうご理解いただいていますね?」

「そうですね…」

「別にあなた達の教団に限ったことではありませんが、聖書自体を盲目的に正しいと考えるには根拠が不足しています。

聖書を編纂したのはパウロなどですね?

そしてパウロが編纂したのはイエスの没後かなり経ってからです。

ということは、イエスの言葉でもなければ、イエスを直に見た人の言葉でもありません。口伝を集めただけです。

仮にイエスが神の言葉を説いたとしても、その内容が正確に伝わっているかはわかりません。その時々の人たちの目線で解釈した言葉が、人伝いに伝達し、内容が多少なりとも変化していないという確実性自体が疑わしくないですか?

特にギリシャ語で書かれた新約聖書ではなく、1600年代のキングジェームズ版以降は、その内容が変化している可能性があります。

いずれにしても、なぜ記述自体に真理があると思うのでしょうか?」

「そうですね…

その書物自体の正しさはどこかで変わっているかも知れません」

「真理であるか否かは、あなたの解釈に委ねられています。そこに絶対的な真理であるという保障はなく、時の編纂者や聖職者の解釈によって内容が変化している可能性もあります。

あなたはそうした絶対性を持たないものを『信仰』によって支えている。ということは、疑いが入れる余地があるということです」

「信仰ではなく疑いを持つことが大切なのですか?」

「疑いを持つという表現が気になるのであれば、本質を見ようと思うことです。盲目的にならずに、あなたが確実に確認できることだけを頼りに、もう一度聖書をお読みになってもいいと思いますよ」

「どういうふうに読めばいいのでしょうか?」

「例えば、新約聖書中にイエスは『私は例えてしか話さない』と言っていますね?

例えて表現している所に注意してください」

「では、イエスが起こした奇跡についてはどう思われますか?」

「弟子が授けられた『悪霊に打ち克つ力』とかですか?」

「そうです。病気を治したり、悪霊を退散させる事のできる力です」

「それはキリスト教独自に見られる現象ではありません。

中国で言えば道教に見られる気功をはじめ、仏教でも仏教者は病気を癒やしたりする力があったと伝承されています。

まあそうした伝承自体はどうでもいいですが、それらは特に不思議な事ではありません」

「どういうことですか?」

「例えば、ストレスで胃潰瘍になったりしますね?

物理的な因果関係とは別に、精神状態、もっと言えば意識の情報状態が、物理的な肉体にも影響を与えるという良い例です。

では、そのストレスの原因が無くなれば、結果である体の不調も治りますね?」

「えらく現実的で科学的ですね」

「例えば、ある人が、夫の性格に対して不満をいだいていて、その精神的ストレス、意識の状態が良くない状態だったとしましょう。

で、その影響で胃が悪かったとします。

そんな中、通常は夫の性格自体の改善を目指しますが、そうではなく、不満を抱く原因となる期待や縋り根性という意識の中の法則が変化すれば、ストレスはなくなり、体は改善します。

そして、そうした意識状態というか情報の状態の変化は、考え方を言語で伝達しなくても、非言語領域で伝達することができます。

なんだか癒やされる人と一緒にいるだけで、特に何もしなくても癒やされたり、日光浴をしたら気分が良くなったりするでしょ?

それらは非言語ですね?

たったそれだけです」

「では、悪霊は実在するのでしょうか?」

「たとえそれらが目に見えたとしても、見えたと認識しただけで、物理的実体として存在している根拠にはなりません。

ということは、悪霊が見えるという人にとっては、何か見えているのかも知れませんが、それは実在というわけではなく、そうした情報状態を感じているということです。

それが、『悪いもの』であっても、その情報状態が変化すれば、消えて無くなったり、変化したりするでしょ?

それだけでいいじゃないですか」

「では、死後の世界についてはどう思いますか?

この世界が終わり、死者も復活し信仰のある者たちが楽園で生活するという点についてはどうお考えですか?」

「まず第一に、この心は、今しか捉えることができず、今しかありません。そういうわけで、未来についての想像は、想像でしかありません。

ではどうして、未来についての想像をしてしまうのでしょうか?

それは未来に対する今現在の生存本能としての不安があるからです

もし、幸福を感じたいということであれば、そうした未来への不安というもの自体に対する認識をしっかりとしたほうがいいと思いますよ」

「死後の生まれ変わりについては?」

「死後というものには、いくつかの概念が含まれています。それはこの物理的肉体や生命現象としての死というものもあります。

そしてさらに、例えばあなたが、信仰を持つ前と持った後では、ある種別の人間になっているはずです。

ということは信仰を持つ前のあなたは既に死んでいるはずです。

それどころか、今というものに認識をシフトすれば、常に死んで生まれ変わっていると考えることもできます。

そうした中で、新約聖書中『例えてしか話さない』と表現されている点に、もう一度着目してみてはいかがでしょうか?」

「私は自分自身で神の完全を示す必要があると思っています。

世界中の貧困であえぐ子どもたちや戦争についてはどうお考えですか?」

「まず、例えばテレビでそうした報道があったとしましょう。その内容が事実であるかどうかはわかりません。

単にテレビという媒体を介して、そうした状況を情報として受け取り、頭でそうした情報を解釈したに過ぎません。

その上で、それはただの情報です。そうした物を見ようと思えばそうした情報が入ってきます。

もし目の前で起こっていて、自分が関われることであれば、自然の流れの中で必要な行動を取ると良いでしょう。しかし、わざわざ、そうした情報を探して対処する必要はありません。

それはその場所にいる政治に関わる人やそのエリアの人達に委ねられているものであり、私たちは、今自分の目の前で起こっていることにだけ意識を集中すると良いと思いますが、いかがでしょう?」

「では、どうしてこのような社会状況になるのだとお考えですか?」

「あなた達の思う『完全』にも似たようなところがありますが、次のようにご説明させていただきましょう。

あなたにも、もちろんご両親がいらっしゃると思いますが、それらの方々を道端の蟻とを比較した場合に、重要度、重要性が少なからず異なっていると思います。

そして目を向けていないだけで、報道対象となるエリア以外にも人や動物を含んだたくさんの生き物がいます。

それらの中で自分が見える範囲しか対象となっておらず、かつ、自分と関係性が強いものを大切だと思っているのが普通です。

完全であるならば、すべてのものに対する重要度がフラットになるはずです。

もし社会の人たちの認識が完全に近づいていけば、自然とそのような状況は無くなっていくでしょう」

「どうすれば完全になれますか?」

「あなたは完全になることよりも、未来に対する恐怖を持っていませんか?

恐怖に対する対処として完全にならなければならないということを思っていませんか?」

「信仰を持って私は救われるでしょうか?」

「例えばですが、『信仰で救われる』ということを考えた時、あなたの行動で、あなたの信仰で神を動かせるということになります。

あなたは、ただ、未来に起こるかもしれない出来事に対して恐怖を感じている。そして、特定の行動を起こさないと、未来に恐ろしいことが待っているという不安を持っています。

しかしそれは何かを読んだ内容や誰かから聞いたりしたことです。その正しさを絶対的に証明することはできないのです

未来に意識を向けず、今に意識を向けて、その恐怖心を今解消するなんてのはどうでしょう?

だっていつでも『今』しかないですよ」

「では私はどうあるべきでしょうか?」

「あなたが今持っている信仰を否定はしませんが、書物や聖職者の解釈を拠り所とせずに、それをきっかけとして自分自身を頼りに、『信仰を必要とせずに確認できる事柄』を頼りに自分自身で何かを掴んでいってください」

「あなたは既に真理を知っているのですね?」

「目を開ければ何かが見えたと、この心は受け取り、今の瞬間はそれを感じていても、次の瞬間にはそれはもうどこにもないということです」

「ありがとうございました」


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