愛のカツアゲ

モテる、モテないの選択権は己にはありません。

もちろん選択権がありません。人が決めてしまうことなのだから、仕方のないことなのでしょう。

本当は自分で決めることができますが、意図的に決めることは、それを受け入れていなければなりません。

世の中で「よいこと」とされていることは困ったことに、その実はそんなに良くないのに、「よいこと」を根拠にカツアゲされてしまいます。

目の前で起こる現象にはタダの現象です。そこに「アイツ」が勝手に属性をつけていきます。意図的に選んだ属性ならまだしも、「人に説かれた意見」によって属性は勝手についていきます。

カツアゲ

愛のカツアゲ、善意のカツアゲ、敬意のカツアゲ、この世にはたくさんカツアゲの局面があります。

本来、愛も善意も敬意も、極めて主観的なもので、自分の中で勝手に出てくるものです。

それを、「なぜ愛さないのか」「なぜ善行を行わないのか」「なぜ敬意を示さないのか」と周りから詰めてきます。

「そういう属性のものではない」

きっぱり宣言してあげましょう。

「この業界の大先輩だぞ!失礼じゃないか!敬え!」と体育会系は言います。

「そういう属性のものではい」

堂々と宣言しましょう。

「行動の約束はできても、感情の約束はできない」

ただそれだけのことなのに。

愛のカツアゲ

同様に、愛もカツアゲされます。

愛は愛という属性しかないのに、それに「責任」というものを周りが勝手に設定します。

そして何かしらの行動を強制しようとします。

責任とは一体何なのでしょうか。

本当に必要に近い「責任」の類には、法律が罰則を設定しています。もしくは判例が、その指針を示しています。法律はあくまで個人が成り立っての社会、社会が成り立っての法律です。

ただ、行動としての責任であることは間違いないでしょう。

「嫌だと思っても、これだけのお金は払おうね」

ということは、やはり何者にも「気持ち」の強制はできないということです。

行動は強制できても、気持ちは強制できない。

それは至極当然のことなのに、どうしてもカツアゲの局面は絶えません。

カツアゲの本音

カツアゲするということは、足りないと思っているからです。

お金が有り余っているのに、ネタでもなくゲームセンターでカツアゲすることは可能性が極めて低いものです。

足りないものは明白で、自尊心です。

愛には愛しかありません。

そこに「責任とってよ」は、なくなることへの恐怖から連想されてしまうものです。

何が無くなると何がいけないのでしょうか。

それは間違いなく、自尊心です。

自尊心の穴埋めがなくなることへの恐怖です。

愛は自然に発生し、自然に溢れ出すのが自然な形です。

自尊心は本来不要なものです。

それをどうにか満たさなくてはならないという渇望感が本来の苦しみの元凶なのに、人のせいにします。

それはすべて「アイツ」こと、自我の本質であり、存在意義であり、最大の戦略です。

自尊心自体が不要なのだから、あげても減りません。

ただ、カツアゲの最中にこんな説法をしようものなら、激怒されます。

それでも構いません。

その人は、こちらの状況がどうあれ、本来的に幸せなはずなのですから。


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