恐怖と知性

恐怖心を抱く度合は、知性のひとつの分度器であるから。そして、しばしば盲目的な怒りに身を委ねることは、動物界がまだ全く近くにあり、それが再び確かな地歩を占めたいと思っていることのしるしであるから。曙光 241 抜粋

 ある対象について、それがうまくいくか、どのようなものなのか把握できていれば、大半の恐怖心は和らぎます。「それがうまくいくかどうか」という把握したい気持ちがなければ、恐怖に駆られることもありません。

だから世の中のいろんなことを「知らなければならない」と思ってしまいますが、この「知ることへの渇望感」も恐怖心であり、「知っているから偉いんだ」と高慢になるのも恐怖心があるからです。

「教えてやる」と驕り高ぶる人は、根底に「知っていなければマズイだろう」という前提を持っています。そしてそこに上下関係を作ろうとするならば、その恐怖心はもっと強大であり、露骨に恐怖心が表れているということです。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、根本の錯覚が取れれば備えがなくても憂うことがなくなります。かといって意図的に「備えない」というのはただの強がりであり、それもまた錯覚から起こっています。

一般的な恐怖の克服

恐怖心を勇気などで潰そうと思ってもなかなか徒労に終わります。恐怖心は錯覚の結果ですが、即時的な感情です。それをどうにか消すということは、すべての思考をストップさせるしかありません。しかし、また、思考が回転し始めると、また感情が起こります。アイツの錯覚が完全に取れるまでは一時的な安らぎにしかならないかもしれません。しかしそれでも繰り返せば、しだいに錯覚は壊れていくでしょう。

アイツが騒いでいるだけですから、特に対処しなくてもいいのですが、そんな時でも、実務的な方法論というものは、一応役に立ちます。

たいていの意味のない「そわそわ」は、悩んでいるだけで考えていないから起こります。マズイことが起こった後に、自分をどう慰めよう、というようなことしか考えていませんから、そんな無駄な思考を離れて、問題に思っていることの本質を把握して、解明解決策を講じていけばいいだけです。

書き出し

人はなぜか、問題を紙に書いたり、文字で打つことを嫌います。特に学校に通っていた時代や仕事中なら比較的、そういった「文字を書き出す」ということもしているはずですが、なぜかそういうことをしません。

コピー用紙にでもいいので、そわそわしている原因を書きだしたほうがいいでしょう。そして、その本質というか問題そのものが書き出せたのなら、そこから線を引っ張って、問題を分解して、また文字に起こします。

それを繰り返しつつ、キーワードに対しての解決策や、「本当に気にするようなことなのか」などを考えて、なるべくそれも書き出していけば、問題の本質も、重要度も解決策も、「受容可能なリスク」も把握できます。

受容可能なリスク

忘れてはいけないのが「リスク」という点です。リスクというものは、それを行うと、ある利益を得るかもしれないが、失敗する可能性もあるので、損失が出るかもしれない、という意味での危険性で、「危険なものそのもの」を指すわけではありません。

必ず、リターンとセットになっています。

「好きな人に告白する」というものがわかりやすいリスクです。

成功すれば恋仲に、失敗すれば現在の「親しい仲」という関係性が壊れつつ気遣いを起こしてしまうということです。そして「リベンジ」の可能性は残りますが、第一回目と第二回目では、性質が異なってしまい、成功可能性が変動するということも内在しています。これ以外にもたくさんの損失は想定されます。

しかし、そのリスクを許容することができれば、行動や実現などが現実のものになります。「成功、失敗、どちらでもいい」という心境です。

と、ここまでは一般論を述べました。

この一般論は、現象を客観的に見ているかのような錯覚の上での「論理上」の話です。しかし意味が無いということはありません。実際にも十分に使えます。

この先の特別論というものもありますが、おそらく理解不能だと思いますので、今回はやめておきましょう。

恐怖と知性 曙光 241


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