序列をその国民に与える

多くの偉大な内面的な経験を持ち、精神的な眼でそれを見つめ、見渡すこと― これが文化人たちを作り出す。彼らがその国民に序列を与えるのである。フランスとイタリアでは、貴族がこれを行なった。貴族がこれまで一般に精神の貧困者に属していた(おそらくもはや長いことではあるまいが)ドイツでは、司祭や、教師や、彼らの子孫がこれを行なった。 曙光 198

少し昔までの日本では、「わかりやすい普通」が作られていました。エコノミックアニマルと呼ばれたりして、愛社精神を持ち、ひとまずがむしゃらに働く人が賞賛されていました。

それはまさに資本主義という思想が流行していたという感じです。

今では若干マシになってきているのでしょうか、それほど諸手を挙げて賞賛されるようなことでも無くなってきています。

もしかすると、新興宗教にハマった人のように、資本主義にハマりきっていた時の方が生き方選択が楽だったのかもしれません。

「一生懸命がカッコイイ」

という一種の指針があったからです。

しかし、「自由にやってくださいよ」と言われるとなかなか何をどう頑張ればいいのか、何をどれだけ一生懸命になればいいのかがわかりません。

一応今なお求人系の会社等々が生き方を洗脳しているフシはありますが、そうした指針は、生き方選択が楽になる一方で「恥」という概念を形成していきます。

「恥」でマインドコントロールされる

なんだかんだで外国に冒険に行くと、すごく解放されたような気分になります。

それは文化や常識が異なる人達の間に佇むと、日本国内で無意識に感じている緊張が一気に解けるからだと思っています。

「これがスマートな社会人」みたいなスーツの着こなしなんかがありますが、外国に行くとおよそそれとはかけ離れた服装をしつつも普通に仕事をしている人たちがたくさんいます。

日本国内でスーツにナイキのスニーカーという感じでは、変な感じがしますが、それに近いような組み合わせの人も街を歩いていることがあります。

それを「ダサい」と思うのは勝手ですが、僕はそういうことを思わずに「なんだか気楽だなぁ」と思いました。

いわば、ちょっとしたことでも流行から外れていると恥をかく、普通から逸脱すると恥をかく、というようなものを刷り込まれていたのです。

そして、日本では企業訪問的なことをしようと思えば、電話かメールか何かでアポを取りつつ、という感じでないと失礼だということになっています。

まあいきなり行くと相手のペースを乱してしまうので、それも分かることには分かるのですが、中国やネパールなんかでは、「友達の家に遊びに行く」位の感覚で大丈夫だったりします。

それまではあまり意識していませんでしたが、「息苦しい思いをしてたんだなぁ」というようなことを思いました。

しかしながら、その後勤め人になると、やはりそうした垣根のない感じは疎がられ、上司からは叩かれ、という感じで潰されかけました。

なんだかんだで、日本に戻ると「恥」という概念でマインドコントロールされていくのです。

それは相手を思いやるということを通り越して、「自分が恥をかいて惨めな思いをしたくない」という抵抗感の利用です。

人からは仲間外れにされますし、鼻で笑われます。

それが嫌で選択を制限されていくうちに、洗脳が完成します。

その極地が、一昔前の「わかりやすい普通」です。

その制限の奥には、「恥」があるはずです。

序列をその国民に与える 曙光 198


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