体系家に注意!

体系家のお芝居というものがある。彼らは体系を仕上げようと思い、それの周りの地平線を完成するので、彼らは自分たちの弱い性質を強い性質の様式で登場させることを試みざるを得ない。― 彼らは完全な、一様に強い性格の人々の役を演じようとする。 曙光 318

一旦体系的に学んでしまうと、その体系からはなかなか抜け出せないものです。自分が教えられた時のように、自分が学んだ体系の軸をずらさないように、その範疇を超えるやり方は排除するという癖がついてしまいます。

文章ひとつとっても、「起承転結」というような言葉に雁字搦めにされて、その枠組からは抜け出しにくいものです。特に最近では記事の最後に「まとめ」などという項目がよくついています。

たしかに支離滅裂な文章よりは論理構成がスッキリしているもののほうが読みやすいのは確かですが、そのせいでその枠組の中の表現しかできないという場合があります。だからといって意図的にそれを意識しながら外していくと勘違い芸大生のようになってしまいます。

ある枠組みの「表現」というよりも、具体化しすぎて前提条件を盲目的に飲み込んでいることにすら気づいていない場合があります。

前提条件を盲目的に飲み込んでいる場合

よくあるのは「彼氏彼女はいた方がいい」というような前提です。

相手がいることは無属性です。無属性というよりも時にそれが喜びになりつつも時にそれは憂いになります。つまりどこにも絶対性のない虚ろなものです。絶対性がある場合は、必ずいつでも良いものだということですが、そんなことはありません。それは解釈しだいでなんとでもなってしまうようなことです。つまりはどちらでもない、換言すれば、ある意味で無属性であり、属性は瞬間瞬間に確定しているようなものだということです。

しかしこれを絶対視してしまうと、それに対する不足が憂いになったりします。しかしそれは「絶対的に良いものだ」という前提があるからです。

「彼氏を作るためには」という方法論は、時に盲目的にそのような前提を含んで語られることが多いでしょう。

方法論はあくまで方法論であって、その上には「絶対的に良いものですよ」というものは確定していないはずです。しかしながら、そのような語りの際には、おぼろげながらそれを飲み込んでいる場合があります。

これが一種の洗脳状態であり、最大の危険性を孕んでいる最たるものです。

下手に反論すると「僻みだ」という叩きが待っています。

しかしこれはルサンチマンでもなんでもありません。論理上の当然の事実であり、解釈変更による自尊心獲得ではありません。

世間で不確定なものを確定的なものとして取り扱って語られる議論は、あくまで仮定であるということをそもそも考えていないのかもしれません。

体系化されたものは、全てが間違いというわけではありませんが、すべて仮定上の仮説の話なのだということを忘れてはいけません。決定のプロセスにおいてスピード感を出すため、簡易迅速にするために仮定された一種のツールにしか過ぎません。現実に使えそうなものもあれば、使えるどころかそれが元で憂いが生じることもあります。

別に他人を説得する必要はないのですから、「相手はそんな考えを持っているんだろうな、多分ああいう理屈で、こんな前提をもって考えた結果なんだろうな」くらいに思っておけばいいでしょう。

体系家に注意! 曙光 318


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