主役降板 改

あくまで印象ですが、認識できる世界が自分中心というか自分を通してだけなのだから、即時的に五感で感じる目の前に広がる世界に意識を向ければいいのに、どうしてかそれ以外の「もっと広いであろう世界」に気が向いてしまいます。

自分が経験したい種類を選ぶインスピレーションになればいいのですが、殆どの場合悶々とするだけです。

「主役」

実際に主役的な位置づけにたった人はもしかしたらこんな経験があるかもしれません。

「なんだこれだけか」

そして、主役でいることを自尊心の主軸にしていた人は、自分が主役ではなくなった時に精神がおかしくなったりします。

「人生は自分が主役だ!」

こんなキャッチコピーがありそうです。

「自分の人生くらい、主役は自分だろう」

こう思うのも当然といえば当然です。人生に主役がいるとすれば自分であることは間違いないでしょう。

その前に主役や脇役などをどうして定める必要があるのでしょうか。

主役か脇役か、そういう意識は本当に必要なのでしょうか。

見方によってストーリーを楽しむ際には意図的に意識を向けても面白いかもしれません。

黄金律

あなたが隣人にして欲しいと思うことを、隣人にしなさい

とよく言われます。

人のために何かをすること、人のお役に立つことは即時的によいこととされます。誰も文句を言いません。それは判断する側が自分がしてもらう側であることもそう解釈される要因の一つですが、「無害感」によって安心するという点もあります。そんなことを検証しなくても、確かに人を傷つけるよりはずっといいでしょう。

ただ、これを人に押し付ける人がいます。それはトンチンカンな話です。一つの提案としてならいいですが、強制が入るのはかなりおかしな話です。世間ではそれを啓発や教育と称して、他人をコントロールしようとしています。

これは自分目線でしか物事を考えられない人に向けてよく引用されますが、原典の解釈では、もう一つのことがたまに言われます。

隣人があなたにしようとしていることを、あなたにしなさい

ともすれば「自己犠牲」が美徳とされ、他人のために働くことこそが尊いとされますが、それはそうでないと都合が悪いと思っている人がいるからです。

ブラック企業は「自己犠牲の精神」が大好きです。

じゃあ会社側が自己犠牲の精神で、従業員を厚遇すればいいのに、従業員からむしり取ることしか考えません。

「自己犠牲」は美徳どころか一種の罪としか言いようがありません。

もし、「自分が苦しんで人が助かるなら」、という考えを持っているとすれば、それまで自分を大切にしてくれた人へにはどう説明するのでしょうか。

仮に「他人の方が大事」という思想があるとしても、育ててくれた人は他人です。散々、育ててもらい教育まで受けさせてもらって、いろいろなところに連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりしたのに、ブラック企業のために死んでしまったり、頭がおかしくなって精神疾患になったら、その人を愛情で育てた人たちはどんな気持ちがするでしょうか。

返報性の原理を巧みに利用して、「会社にお世話になっているから」という理由で、自己犠牲を強いてきます。しかし「お世話」に限って言えば、親類や配偶者の方が会社以上にしてくれているのではないでしょうか。会社より友人や近所の人のほうがしてくれているような気がします。

自分が人に分け与えられるくらい豊かで、勝手に溢れてしまうくらいが本来の姿です。

他者に与える前に、同僚が差し入れを持ってきてくれるかのごとく、「こういうことをしてもらったことがある」ということを、一度自分から自分にしてみてはいかがでしょうか。

過去記事⇒主役降板

 


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