イエスかノーか、この選択の連続で、ずーっと生きています。
人生の選択と称されるような大事件の時だけが選択しているときのように錯覚しますが、常に選択の連続で、願いの成功の連続で成り立っています。
選択には決定、決断がつきものです。
しかし、人は「決める」というとストレスを感じてしまいます。
なぜなら、「決めたからには責任を」という洗脳が解けないからです。
決めたからには責任を
「決めたからには責任を」
そんな話が大好きな人がいます。
たまに部下に営業目標を紙に書かせて、「お前が決めた営業目標だろ!」と怒鳴る管理者がいます。
書かされただけなのに、怒鳴られた方は大変です。
ただの脅迫なのですが、一応自分で書いてしまったもんだから、なぜか言い返せません。
この仕組みをうまく利用したのが自己啓発系の人たちです。
そんな人たちがコンサルタントとして、この仕組みを吹聴するので、世の中がブラック企業だらけになってしまいました。
どうせ営業目標を達成したところで、次はその110%とか言われるのがオチです。そして営業目標未達を理由に給料をケチりたいだけです。
こういうのは自分自身にだけやればいいだけ、すなわち、「アイツ」の特性を逆利用する時に使うのが「自我の範囲にいる人」に有効なだけで、他人に押し付ける性質のものではありません。
「決める」に関して少し視点を変えてみる
決めるのは責任が伴うという洗脳が解けないうちは、ストレスから解放されるのは難しいかもしれません。
そんなときは、「許可」や「受け入れ」というふうに視点を変えてみましょう。
成功の連続という表現をしましたが、すべての行動には、そうしたいと思った意図があるはずです。
俗に言う「願い事」です。
意識していないだけで、呼吸も水を飲むことも、歩くことも、一応そうしようという意図が思考をバイパスして許可することによって実現しています。
意識していないので、考えもしていません、なので「決めている」という意識も当然にあまり意識しません。
意図すら自動発生して、しかも自動で実現しています。
ただ、意識していないので、気づきにくいだけです。
「100ml空気を吸い込もう」とは意識していないはずです。
でもそれを許可しているから実現しています。
試しに息を吸うことを意図的に許可取り消しを行ってください。
息が止まります。それくらい試さなくても簡単なことであることには気づかれるはずです。
あれもこれも、すべて勝手に意図は出てきます。あとはどれだけ許可しているかだけの問題です。
そう考えると、少しは気が楽になるかもしれません。
ただ、これは気休めではなく事実です。
改バージョン⇒人生の選択ってやつ 改
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