ニヒリズム

「○○さん!そこの場面、ニヒルな感じの笑いでお願いね!」と、売れていない劇団の劇中などで安易に使われますが、このニヒリズム(虚無主義)というものについて考えてみましょう。

ニヒリズム(虚無主義)についてですが、この哲学上の立場としては、「すべての物事・現象には価値がない」としますが、この場合の無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれず、消極的ニヒリズムを超えた積極的ニヒリズムとして「価値を作り出す」ということは、ニヒリズムの根底にある「無価値」とは矛盾します。

虚無主義と呼ばれますが、ぱっと検索しても全く的を得ていない、もしくはニーチェ解釈に留まるレベルですね。辞書や百科事典レベルではおそらく意味がわからないでしょう。また、すぐに「宗教」を絡めようとしますが、宗教を絡めた版、絡めない版の解説がきちんとなされていないと、とんだ勘違いが起こるかもしれません。ここでいう勘違いとは、およそ到達しうる思考の限界までたどり着くまでに「そう書いてあるからそうなんだろう」という全くお粗末な思考の曖昧な定義で終わってしまうことです。

事の原因は、ニーチェで、彼が言う「神の死」という方便的要素のおかげでキリスト教的前提が置かれる傾向にあります。そこから帰結されるもの、それすら、一つの可能性ではありますが、ぱっと参照した文献が「○○大学出版」などと、有名な大学の看板があれば、「俺には言い返せないかなぁ」などと考えることをやめてしまう恐れがあります。特に辞典などはその編纂者が国語学者です。要約することや類語には強いですが、哲学に強いとは限りません。

特に哲学の分野に、宗教社会学のようなものや史学のようなものを解説文章に混ぜて嵩増しをしているような文には信頼を置いてはいけません。

「誰々の何々について説明しなさい」という論述の際に、「何々」について詳しく触れる前に「誰々」の生い立ちや生まれ年等を記述して嵩増しするのと同じです。これは明らかに、それまでの教育で「さて何年の出来事でしょう」というようなクイズ形式の試験ばっかりしてきたせいなのは明らかです。本質的に聞きたいのは、誰々の生い立ちではなく、その人が生涯をかけて考えた「理屈」の方です。それが試験なら負けてあげてもいいですが、文章スペースの少ない辞書の類でそれはお粗末ですね。

普通はニーチェのいうニヒリズムに関しての解説から入るところでしょうが、そんなことはしません。そんなことは検索すればすぐに出てきます。ニーチェがある意味でキリスト教に囚われていたように、現代の解説者はニーチェに囚われすぎています。ニヒリズムという言葉自体の発端がその辺なのである意味では仕方ないことです。しかし、虚無というところから考えていきましょう。

ニーチェのニヒリズムやハイデガーのニヒリズムについては、「哲学をする」のではなく「お勉強がしたい人」用の文献に任せることにして、ニヒリズムの概要が全くわからない人用にわかりやすく若干の解説を設け、その後に無価値や虚無についてニヒリズムを発端としてどうたどり着くべきかを掲示しておきます。

ニヒリズムの概要を無価値という尺度や消極・積極、受動・能動という概念から追ったあと、ニヒリズムの先にあるものについて考えていきます。

それではニヒリズムの概要から進めていきましょう。

ニヒリズムの概要

ニヒリズム(Nihilism)とは、わかりやすく単純に言うと、物事のすべてに価値を見出さない、価値を感じない、価値を置かない、というような感じで、人間の存在を含め、すべての物事・現象には価値がないとする哲学上の立場というか考え方です。

日本語では虚無主義(きょむしゅぎ)というふうに表現されることがあります。

「ism」や「主義」という言葉がついているように、一つの立場であり主張であり主義です。

そういうわけで、それに絶対性があるわけではなく思考上の解釈可能性があります。

悲観主義や厭世主義などと類似しているようにも見えますが、ニヒリズムはもっとフラットに、「すべての物事に本質的な価値はない」という感じです。

価値について噛み砕いて考えてみると、社会の中では、宗教的価値観や社会的ステータスなど、様々な「価値」が置かれていますが、すごく客観視したとすれば「それが何?」と一蹴することができるはずです。

ある人は価値があると信じているものが、他の人から見れば価値がない、ということはそうした価値は、主観による基準が元で「創作」されているにすぎない、ということです。

そうして世の中の全て、自分の存在すらも客観的に俯瞰してみれば、「価値」というものはそもそも存在しないというか、絶対的な基準としての価値はどこにも見い出せないはずです。

そこで、「全てが無価値であるならば」というところから解釈可能性が広がります。そうした中で一般的によく言われるのは消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムです。

消極的ニヒリズム

ニヒリズムをどう捉えるか、「ニヒリズムの上でどう生きるか?」という場合に、「すべてのことに価値が無いのなら、何をやっても価値がない、頑張るだけ損だ」という解釈をすることができます。

何をやっても何にも価値が無いのだから、消極的に受動的に生きていこうという発想、これが消極的ニヒリズム、受動的ニヒリズムと言われるようなものです。

今までは「頑張る自分がカッコイイ」「頑張れば人が褒めてくれて嬉しかった」「頑張ればモテるかもしれない」そんなことを思っていましたが、どうにも頑張っても見返りはない、そういうことはよくあります。

「頑張るあなたは素晴らしい」という感じでそこに「価値」があると教え込まれ頑張ってみたものの、頑張ったところで報われない、給料は増えない、誰にも評価されない、嬉しくも楽しくもない、そんなことを思い始めます。

人の評価も一過性で、その時の状態により、人によって価値判断の基準は異なるのだから、もう誰かの何かの「価値」に合わせて自分を振り回すのは懲り懲りだ、そんなことも思い始めるでしょう。

そして、世のすべての現象は一過性でそこに本質的な価値、絶対的な価値などどこにもないのだ、というようなことに気づいた時、「じゃあもういいよ、好きにしてくれ」と消極的ニヒリズムに陥るのが典型例ではないでしょうか。

といっても、この状態はどこかしら何かを期待しています。

聖典とされる書物に価値を置いていたものの、書物自体の価値を解釈するのは思考上であり、それ自体には絶対性が無く、本質的な価値の絶対的な証明ができないということに気づき、それまでもっていた宗教的価値自体が失われて、すがるもの、指針を失い意気消沈している場合も消極的ニヒリズムだと考えることもできるでしょう。

積極的ニヒリズム

一方、一般的に言われる積極的ニヒリズムは、「絶対的で本質的な価値が無いなら、自分でその価値を作ってしまえ」というようなイメージになるのかもしれません。

そういうわけで積極的ニヒリズムは能動的ニヒリズムというふうに表現されることもあります。

「何にもなしってこと、そりゃあなんでもアリってこと」

という感じですね。

特に思考で吟味すること無く「オレはオレ教」と吹聴している人に寒気を覚えますが、そうした人たちの態度は積極的ニヒリズム的であると考えることもできます。

先にも例を示しましたが、世界の宗教的価値観の中では、「頑張っても頑張らなくても、天の国に入れる」「信じていれば極楽浄土に行ける」というような発想のものが少なからずあります。

こうしたものは、宗教的価値が前提になっているので、本当の意味でのニヒリズムではありませんが、積極的ニヒリズムの場合には、「天の国に入る入らないは私の行動の結果の範疇ではないが、この感情の快さを得るために能動的に生きるのだ」という感じにもなります。

消極と積極を統合しフラットに抽象化する

こうしたニヒリズムを捉えるときの可能性としての「消極的ニヒリズム」や「積極的ニヒリズム」が一般的によく話に出てきますが、その前提にある「宗教的価値」というものには価値を置いていたり、道徳や倫理といったものには盲目的に価値を置いている場合がよくあります。

ある種ニヒリズムの解釈、ニヒリズム発端の倫理として、「消極的ニヒリズム」と「積極的ニヒリズム」に具体化するというのは思考上の可能性としてはひとまず良いでしょう。

しかしながら、そうした時に、ニヒリズム自体が「無価値」と言っているにも関わらず、「価値は自分で作り出す」とか「一生懸命に生きよう」とかそうした社会的な倫理、人としてこの社会の中でどう生きていくかという非常に具体的なところから話を進め、宗教的価値や倫理的な基準自体には未だに価値を置いているという矛盾に気づいていない場合がよくあります。

そういうわけでニヒリズムを一度二つに具体化したところを抽象的に再統合しフラットにした上で、ニヒリズム自体の本質である「価値」や「無価値」、「虚無」というところから再考していきましょう。

無価値

人間や現象に価値があるとかないとかいう議論がまずなされ、そこで無理矢理にも価値を見出そうとします。しかしながらどこか何かに無理がある、そのことに気づいてがっくり来るというのがよく聞くような話ですね。

その前に価値とは何か、そして無価値の「無」は有の対義語ではないかもしれないということを考えてみましょう。

何とかして見出したい「価値」とはおよそ効用や期待であって、とどのつまりは感情的なものです。そして、価値は相対的な価値と絶対的な価値に分類されそうになりますが、絶対的な価値は証明の必要がないので議論の対象にもなりません。ということで、価値がある/ないというのは相対的価値になります。

相対的価値とは使用価値と交換価値で言うところの交換価値ですが、つまり自分以外の誰かに「証明の必要があるもの」ということになります。即時的、証明の必要のない価値は自分だけが満足すればいいのですから、掃除機なら自分で使えばいいだけの話です。「正常に動いてゴミを吸い取る」という証明が必要なのは家電量販店の店員が客に売る時です。その客が存在もしないのに証明しようとするもの、それがここでいう「価値」ということになります。

そしてそれが「ない」というのは、「説明が苦しい」ということや論理的欠陥があるというだけで存在自体の価値/無価値には関係ありません。

空き地に雑草が生えていても、それは「雑草がある」だけで、「刈り取らなければ土地を引き渡せない」というのは人間の不動産所有者の都合上の話です。

価格がゼロ円で交換価値がない、というのがさんざん議論されている価値の本質ではないでしょうか。厳密には交換価値というより、交換するしないは別として「他人に証明が必要」と思い込んでいるもの、ということになります。

すべてのモノや現象に価値が云々、それ自体が本来はナンセンスな話です。つまり議論が成り立ち得ないはずなのです。あるのかないのかというのは認識の問題なので、ここでははっきり述べませんが、「ただ、ある」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まるということになります。結果的に「価値があるんだから攻撃しないでね」というような心理面でのお話で、少し哲学とは異なる分野になります。

だってニーチェは自分で「心理学者」って言ってるぞ!哲学専攻の学者さん!

ただ、ナンセンスだというところまでたどり着くことは哲学的ですね。

そして、無価値という前提があったとしても、それは対外的、相対的な価値なので、価値は自分で作りなさい、というどこかの企業の社長さんが社訓に書きそうな結論になりそうですが、それではまだ甘い。

価値を自分で作り出さなければならないとすれば、それは「思い込まなくてはならない」ということになるからです。思い込まなくても、嬉しさというものは感じます。しかし「価値」があるんだ、ないんだ、というようなことを前提に置くと、「えーっとこれの持つ意味は、価値は」みたいなことになりかねません。

「無価値、だからこそ!」と変に躍起にならずに、一切の現象に何の属性も設定しない状態というのが虚無主義の行き着く先なのではないでしょうか。

無価値を「周りの奴らは価値があるけど自分にはない」というような「価値がある」の対義語として捉えるのではなく、価値という概念すら想像はできるが実体はない、つまり「価値」というものすら本来は存在しないというのが、「無価値」、というのはいかがでしょうか。

ともすれば「無」がつくと有無の二元論に入りそうですが、どうして「価値」というものが「ある」という前提には疑いをかけないのでしょうか。

文章の心理トリックのようなものです。

「無価値」

という単語があると、「価値」というものが必ず「ある」という前提から入って、それが対象には存在しないという設定を無意識にしてしまいます。すなわち、「無価値」という単語を見た段階で、「価値」というものの存在を無条件に受け入れてしまいます。もう一段階手前から行こうではありませんか。

ありがちな戯言

「ニヒリズム」

こういうことを雑誌のライターが読んで記事を書くと「だからこそ自分で価値を見出し、強く生きていく必要があります」などと言います。

そういうことではありません。

「虚無、だからこそ」「無価値、だからこそ」

そのあとに体育会系のようなことを言ってはいけません。

自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度

というのは体育会系が最後に都合よく言うようなセリフです。

積極的ニヒリズムなどと言われますが、本来はポジティブもネガティブもありません。そんなものがあったら「虚無」ではありませんね。

積極/消極、受動/能動という概念すら「虚無」のはずです。虚無はどこに行ったのでしょうか。

ニヒリズムの先にあるもの

客観的で絶対的な基準としての価値が無いことに気付いた後、「それならば」と自分で定めた価値に基準をおいて、自分で決めた価値観、感情を指針とするというようなことに陥りやすくなります。それではまるでルサンチマン的になってしまいます。

積極的ニヒリズムとして「価値を作り出す」ということは、「無価値」とは矛盾します。

そして「能動的に生きること」自体には価値を見出しています。ということはそんなものはニヒリズムではないのです。

ポジティブでもなくネガティブでもなく、一瞬一瞬をただ、ありのままに生きること

これが本来的なニヒリズム・虚無主義の到達点ではないでしょうか。

全てに価値はなく、ただ諸行無常たる一過性の現象に過ぎないと悟り、自分で無理やり定めた価値や感情、その他何にも一切とらわれず、喜ばしい感情すら執著の元となると悟り、「価値あるもの」という執着こそが煩悩となり苦の元凶なると悟り、感情にすら価値を見出さず、ただありのままに感じて、その場に置いていく、というような感じです。

まるでゴータマ兄さんのような帰結ですね。


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