われわれの心に浮かんでいる言葉

われわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たないのである。 曙光 257

語彙の数だけ、思考の幅も変わるといったことを聞いたことがあります。単語ごとに定義は異なり、ニュアンスは異なっていくので、より仔細な表現、厳密化が可能になるというものと、もうひとつ、思考対象の領域が広くなるというものです。

一つの単語を見たり聞いたりした時に浮かんでくるイメージも変わってきます。ただ単に一つの印象だけというわけではなく、多彩なイメージが同時に出てきます。前後の単語、文章の構成によって、単語の持つ様々なイメージの中から限定が始まります。そして、その場での意味が確定していきますが、会話の中ではこの定義の違い、ギャップから勘違い、すれ違いが起こります。

共通の文化で暮らしていると意味合いの違いはさほど起こらないのかもしれません。しかし、おそらく各人は多少は違ったニュアンスで捉えているでしょう。

共通の文化風土の中で、「おそらくギャップはない」と思っている以上、定義の確認は無駄な労力に見え、常に省略される傾向にあります。

語彙を増やすことと、各単語がもつ様々なイメージを明確化していくこと、類語とのニュアンスの差を感じていくことは、先に掲げた、「より細かい表現や厳密化」や「思考領域の拡大」の他に「差がわかる」ということで、感性が磨かれる事にもなり、また、物事を抽象化・具体化していくという癖までついてきます。これは思考領域の拡大と同じようなことですね。

こういうクセがついていくと、面白いことが起こります。

プレゼントを考える

たとえばプレゼントを考えるにしても、相手が「直近に欲しがっていたもの」以上のものが浮かんでくるかもしれません。

相手を分解して考えて、ひと味ちがうようなものを思いつくかもしれません。

例えば男勝りな女性でも、女性という属性はその人の印象の中に一応入っています。そこで、女性への贈り物という発想が出てきます。これは普通にも出てくるでしょう。

たまに男性のような女性にも「女性らしい贈り物を」というような記事がありますが、それと同じようなことです。相手が男性的だからといって男性的な贈り物しか思い浮かばないというのは少し短絡的です。同様に相手が陶芸家だからといって湯呑みを贈ってはいけません。

世の中ではカテゴライズして、属性を決めていこうとしますが、相手をイメージした段階で無数の属性が一気に浮かぶはずです。一気に浮かんでいるイメージの中から、頭で「カテゴリ」の中の属性を考えていくと、つまらないアイデアしか浮かびません。

相手だけをイメージして変に具体化しないことです。すると勝手におもしろおかしいような一捻りが生まれてきます。

友人の誕生日に、友人が欲しがっていたブーツを買っても、「買おうと思っていたが、買う手間とお金が浮いた」くらいにしか思われないかもしれません。

ともすれば「意外性」のようなことばかり囁かれ、意外であればそれでよいかのような手抜きが多いですが、それは意外性すらも、誰かが考えたような使い回しか、むちゃくちゃにやっただけというものだからお粗末になってしまいます。これはひとまずキャンバスにペンキで無造作に塗ればそれが身体表現であり、芸術だと勘違いしてしまう芸大生に多いパターンです。

奇抜ならそれでいいというわけではありません。相手の持つ印象から、大喜利をしなければなりません。

第400回投稿記念の時の大野氏はその一例です。

われわれの心に浮かんでいる言葉 曙光 257


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