一過性の流行のようなものを日々使い捨て、その場の享楽に生きる人にとっては、目の前の出来事もまた一過性であり、一過性でありながら、そうした享楽的なものを渇望し、餓鬼の如く消費物を探し彷徨っていたりします。
「前によく言ってたあれはもう言わないの?」
と聞くと
「そんなのはもう古いよ。今は…」
と続くのが関の山、どうせ目の前にいる自分も一過性の暇つぶしなのだろうという予測が立ちます。
また捨て去るだけでなく「忘れる」ということが常であるなら、その場の言葉にしても、その人格にしても信用するに値しないということはすぐに推測できます。
その場だけであるから無責任であり、容易に捨て、忘れ去る
その場だけで良いので、気楽に接することは出来るという反面、その場だけで良いからこそ無責任でよく、言葉は酔いにまかせたような譫言でもよく、今この場で起こっていることにしても、一過性として扱い、その後「過ぎ去りし事ゆえ執著するな」と居直るのがせいぜいです。
「こうしてあげよう」と、そうした者どもに合わせて物事を行ったとしても、そうした事があったこと自体は忘れ、いずれ「お前はもう飽きた」と去るというのがその本性という感じになっています。
義たるものなどなく、速やかに現れては速やかに去る、その中で、義を求め、義のためにと慮る心持ちを持てば、否が応でも踏み躙られます。
そして義なき者どもが享楽に酔い痴れる中にあっては慈しみは育まれず、彼ら彷徨い求めるうちに慈しみによる心の平静はもたらされず、いずれ享楽が享楽として成り立たぬことに苛立ちながら、また餓鬼の如く彷徨い続けるという格好になっています。
忘れ去る者への信頼
意を決して何かをしたということも忘れ去られるということが予測できます。
そうなると、「安心・安全を意図する生存本能」の中にあって、「過去や未来に意識が向く」という機能があるという中、当然に今から行うことが「未来に対して何の意味もなさない」という予測が立ってしまうことになります。よって、信頼は獲得できません。
信頼されないということは、それだけ経験の幅が狭まるということになります。ということは自業自得となります。
現代において、かつてよりもより一層、一過性の方法論が成り立っているのは、それを可能にしてしまう環境が整っているからです。
それは「浅くとも数があれば」というものではありますが、数により充足できたかのように見えても深さがもたらすものを代替するものではありません。
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今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。
軽薄の人は交わりやすくして亦速なり。
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