自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。
自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。
自由意志とは何かを捉えるとすれば、「意志が自由である」ということになりますが、哲学的に見るとそうした意志自体がオリジナルであるのかどうかが疑わしいはずです。
行為を客観的に見た場合、選択肢としての自由はあるように見えますが、意志決定における方向性として「どの選択肢を選ぶか?」というもの、主観的な意志、主観的な選択は本当にオリジナルなのでしょうか?
どのような人でも、どう世界を解釈し、目の前の現象にどう反応するかということが、自分以外の他人からの情報によってセッティングされています。
つまり、どこかしらは洗脳されているのです。
しかしながらそうした洗脳状態は、解いていくことができます。
まずは、自分の中にある「関数」を発見してみましょう。
「たったそれだけのことだったのか…」
と、がっかりするはずです。しかし同時に憂いは無くなっていきます。
ちなみに関数とは、中に計算式があり、何かが入力されれば、何かが出力される方程式のようなものだと考えておいてください。
タイプの異性を見つけて、○玉が反応する、というのも関数です。
人によって関数が違うのでバラバラですが、○玉が反応した後、「声をかけようという動機が生まれる」のも関数ですし、「声をかけて嫌な顔をされるのが恐い」と思ってその場を去るのも関数です。
意志の選択は体感がベースになっている
ある現象への反応は体感がベースになっています。
例えば、ある新興宗教の教義が正しいと意志を持って判断する場合、その教義自体が本当に正しいのかどうかというところが確定的な真理というわけではなく、その意志決定の裏にある本質的な理由としてはその新興宗教が作り出す空間が「心地よいから」という場合があります。
おばさんたちが群れて集会を行っているような団体を思い出してみましょう。
それは「群れて孤独を忘れ、何かしら楽しい雰囲気がある」というところがポイントとなっているだけです。
意志の選択は、そのほとんどが体感ベースになっており、ただ心地よいから選択するということになっています。
しかしそれは誤りであり、時に洗脳する側の恣意的な意図によって方向性をセッティングされていて、心地よさと何かが関連付けられているだけだったりします。
ということで、そうした関連付けによる関数を見破って洗脳を解いていくことが理想的です。
そうしたときには、意外と論理が役立ちます。
論理で全ての憂いが無くなることはありませんが、簡単な弁証法的な思考だけ持っておくと、そうした「関数」を壊していくことができます。
枠組みからしか見えない世界
先日、アドラー心理学系の本を少し読んでみました。アドラーが書いたものというよりは、アドラーを解釈している人の本です。
すると、内容はおそらくアドラーが意図したものとは真逆になっていました。
引用文に対する解説文が、結果的に真逆のことを差していたり、解説文が引用の自己矛盾となるような形で書かれていたからです。
単に自分が嫌いなタイプの人を否定することに躍起になっているだけの解説文に
「カス」
という判定を下しました。
ここでわかることは、アドラーを理解しようと思うと、少なからずアドラーと同じレベルで世界が見えている必要があるということです。
でないと、自分の解釈できる範囲、自分の都合という目線でアドラーを都合よく利用しているだけになってしまいます。
つまり、著者は自分が持つ枠組みの中からしかアドラーを読み取れなかったということになります。そして、結果的に逆の結論になっていたのです。
同じレベルで見るということ
同じレベルで見るということは、その人と同じ知識量で見るということと完全にイコールではありません。
その人と同じくらい世界を包括して見れる目があるかどうかです。つまり抽象的に俯瞰できるかどうかにかかっています。
抽象的に見るということはその下にある具体性の様々な可能性を包括して見ているということです。
人の行動は、結局どう転んでも自己都合です。
しかしながら、全くの自分だけの都合なのか、相手の喜びを自分の喜びともした上で、ダブルの喜びを得ようとするのか、自分と相手とその周りの人の喜びを包括して、自分が喜ぼうとしているのかというもので、どんどん抽象度が変わっていきます。
だからこそ、レベルの高さや低さはそうした包括した対象の範囲の広さにかかっています。
それを自分や相手だけでなく、人類や動物、果ては全生命体にまで広げていけば、今だけでなく、この先の未来まで包括するものであればあるほど、レベルが高くなるという感じです。
ところが、自分の行動に自由意志があるように見えて、誰かに枠組みを設定されたまま、その内側で自由に選んでいる気分だけ味わっているというのが本当のところです。
極端に洗脳されている人も一応自己都合で動いています。
「罵声を浴びせてもらえれば、悪いカルマが消える」と思っている人も、自分の「悪いカルマ」を消したくて罵声を浴びせてもらっています。ある意味自由意志でしていることです。
しかし、自由意志のもとの自己都合かのように見えて、洗脳した人の都合のために、そういう気分にさせられているというのが本当のところです。
ということで、洗脳とは、だれか他の人の都合のために、「関数」が組み込まれているということです。
AをすればBになり、Bになれば心地よいからAをする、ということです。
そうした関数を言語と体感を利用して人に組み込んでいくものが洗脳です。
狭義に洗脳とは、「ブレインウォッシュ」なので、拘束して虐待を与え自我を崩壊させた上で刷り込むものを指したりしますが、あえて洗脳という言葉を使っていきましょう。
洗脳は「ブレインウォッシング」だが…
洗脳は「ブレインウォッシング」ということで、脳を洗うということ意味します。元は1950年代頃の中国で起こった捕虜に対する強制的な洗脳(洗脑)に対し、ジャーナリストが表現した「brain washing」の日本語訳という感じです。
ということで、字義のまま「脳を洗う」という感じで、既存の関数を洗い流して、上書きするということが洗脳です。狭義の洗脳は虐待を与えたり睡眠を与えないことなどをもって自我機能を低下させた上で行うという意味で、マインドコントロールとは若干異なる概念とされていますが、人格や心理を操作するという意味では同じようなものです。
しかし、生まれて来てまっさらな状態にあって、その後に植え付けられたものは、「脳を洗う」ということはされていなくても、何かの関数を埋め込まれたということになります。
洗脳は既存の人格を一旦洗い流して、新しいものを埋め込むという感覚ですが、根本をたどると洗脳前の「人格」や、いわゆる「考え方」などについても、洗い流すというプロセスはないものの、外部の人達などから埋め込まれたものから形成されていると考えることができます。
さて、人間は他の動物と比べて成長が極端に遅く、長い時間をかけてどのような環境にでも適応できるようになっているというのが、仮説の中の有力説になっています。
ここからわかることは、どのような関数を持つのかがバラバラになる唯一の動物あるということです。
そういうわけで、日本人ならば、日本人として生きやすいように関数が出来上がり、アフリカの部族ならば、その部族の中で生きやすいように関数ができあがっていきます。
そして、その関数の形成は、言語的習得よりも、まだ言語能力が未発達な頃に大人の姿を観察することがメインになっています。
何に対してどのように反応するのか、という無意識レベルでの言動を覚えていくという感じです。
僕が超絶甘党になったのも、おそらくおじいちゃんがうまそうに丼いっぱいのぜんざいを食べていたことが影響しています。
で、自由意志がありそうで無いのは、結局そうしたモノマネがベースになり、目の前の現象をどう捉えどう反応するのかというところがセットされているということになります。
それは幼少期の体験をベースに、その後に経験したことの「体感」が元となっています。
そして、様々な関数ができあがっていきます。
その関数を書き換えてしまうこと、それが洗脳です。
そして、洗脳には言語的説得ではなく、心地よい体感や恐怖などが利用されます。
そして、自由に選んでいるようで、限られた選択肢の中からしか選べないように「見える世界」を限定していくのです。
そう考えると、職業選択にしても「洗脳」という感じがします。
根本的に職業を持たなくてもいいはずなのに、まず「就職しなければならない」という就職に意識が限定され、提示された職業の中から選ぶ程度のことしかしていません。
これは、うまい具合に誘導され、目の前の物事に反応しているに過ぎないのです。
自由意志で選んだといいたいのはわかりますが、演出された自由意志の内側で選んでいると錯覚させられているというのが本当のところです。
焦燥感が洗脳に拍車をかける
だいたい占い師や自己啓発セミナー、新興宗教に洗脳されてしまう人は、暇が苦しく、寂しい気持ちを持ち、どこかでプライドが高く見栄っ張りで「恥をかきたくない」という人ばかりです。
群れを欲するのが当たり前で、誰しもが寂しい気持ちを持っているのが当然だと思っています。
しかしそれらは本能レベルの恐怖心です。
そうした寂しい気持ちを解消したりすることに対する焦燥感が強ければ強いほど洗脳されます。
洗脳されない人は、占い師に占ってもらおうとも思いませんからね。
他人にコントロールされることが成功法則になっている
そして洗脳のされやすさのもうひとつの要因として、他人にコントロールされることが成功法則になっているという点があります。
占い師に占ってもらおうとすること自体が、他人の意見に追従して反応するということです。占い師に生き方などを占いで決めてもらおうとするのは、まさに他人にコントロールされることが心地よいという構造になっています。
そうした人は、自分で決めて失敗したくないという思いを持ち、失敗して恥をかきたくないとも思っています。
決めることのストレスに比べたら、誰かに導いてもらうことの方が心地よいのです。
ポイントは、それが論理的に間違っている云々ではなく、その方が「心地よい」ということです。
祈りや勤行を抽象化してみる
ここで一つ、群れていることが心地よいだけで、宗教団体に属している人たちが人に勧める「祈りや勤行」について再度抽象化してみましょう。
世界各国の様々な宗派で同じようなことをしています。
では、なぜそれぞれの人達が、それを正しいこととしていつまでもやっているのでしょうか?
正しいことが一つであるのならば、異教徒のそれは誤りにはならないのでしょうか?
誤りではないのならば、どうして自分たちの方式が正しいと思えるのでしょうか?
つまり、そうした各々の形式による具体的行動自体ではなく、それっぽい構造を持った行動には、何某かの情報状態の変化があるということです。
ある宗派のある特定の行動に意味があるのではありません。
まあこれに関しては、哲学と解釈で触れていたのでこれくらいにしておきましょう。
関数の呪縛を壊していく
さて、関数の呪縛を壊していくというところをもって、今回は終わりにしましょう。
洗脳とは結局、人が持つ関数を壊し、洗脳者の都合の良い関数に上書きしていくことを指します。
だからこそ脱洗脳は、洗脳された人が持つ関数を再度壊し、また別の関数に上書きするということになります。元と同じようなものに戻ればいいですが、場合によっては洗脳と変わりないことになってしまうことがあります。
でも、少し残念な気持ちになります。
所詮、人は各々が持つ関数に応じて目の前の現象に反応しているに過ぎないとわかれば、一種のがっかりがやってきます。様々な人間が自由意志のもと人生を謳歌できると思っていたら、洗脳上手な人や企業がまた人を洗脳し、息苦しい世界に戻していく可能性でいっぱいだからです。
大好きだった純粋な優しい女の子が、ふとしたことで変な男に捕まり、水商売の洗脳上手に洗脳されて人を「お金」としか見ないようになったりするわけです。
何となくの「快感」や「不快感」が元となり、知らぬ間に関数はできあがっていきます。
そして気づけば、そうした内側でしか世界を解釈できなくなり、ただ関数に応じて目の前の現象に反応し、誰かの意志を他に媒介させるための媒体になっていくだけになっていきます。というよりアイツの領域を脱しない限り、そのような感じで生きているはずです。
少しずつでも脱していきましょう。
その第一歩は、体感と関数に気づくことです。
反応をただの反応とせずに、反応の構造を見るということです。
その「心地よい体感」を「今、感じた」ということ、そしてその奥にありそうな無意識の関数に気づくことです。
そして、関数にはアンチテーゼがあるということに気付いてください。その上で、関数を抽象化していきましょう。
勝手に注目して、勝手に反応して、勝手に想起して行動を起こしてしまう、という領域から脱した時に見える世界を楽しんでください。
自由意志は純粋な「哲学的な捉え方」と「社会の中でどう扱うか」という目線の違いで、発想が大きく異なってきます。こうした感じなので「自由意志」と言う言葉を扱う時に混乱が生じることがあります。ということで「自由意志と洗脳」の続編として、「自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く」を書いてみました。
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