知人の一人に、いつも少し気弱な若者を舎弟にしようとしながらも一年以内に去られているというような人がいます。
連れてくる若者は大学生だったり、第二新卒あたりの年齢の人だったりするのですが、何となくの雰囲気から察するに「何となく嫌になって去っていく」という感じで一年以内に縁が切れたりしています。
「自尊心充足の踏み台」を察知して去っていく
知人としては食事をおごったり仕事を与えたり等々で世話をしているつもりなのでしょうが、傍から見ていると自尊心の充足という面と「雑用をやらせよう」というスケベ心が垣間見れてしまうので、おそらくそんな雰囲気を察知して去っていくのでしょう。
若者としても社会的スキルがついたり、いろいろな人と出会えたりといった感じで、お互いにメリットがあるかのように見えますが、「自尊心充足の踏み台」としての雰囲気が強いので、そちらの方が嫌になって去っていくという感じになっていると思います。
ということを僕だけでなく、周りにいるある程度たくさんの人達が察しているくらいなので、当の若者としては当然に嫌な感じを感じているはずです。
しかし知人としては、「世話をしたのに。恩知らずが!」くらいに思っていたりします。
行動はあくまで意志を具現化したものにしかすぎない
ただやはり食事をおごるなり何なりにしても、その物理的な行動そのものはあくまで意志を具現化したものにしかすぎないので、それを意志的な情報と再変換したならば、それほど良質なものとしては伝わっていないという感じになってしまいます。
数値としてわかりやすい金銭的価値というものは、どうもそうしたものを盲目的に数値化して計算できるかのように錯覚させてしまいますが、金銭にしろ、物にしろ、金銭獲得のための仕事にしろ、「人から人に伝わる」という面においては結局無形の情報が媒体として具体化しているということでしかありません。
また、奥にある意図として、それそのもの以外にも情報がくっついて相手に伝わるということなのであれば、数値面だけで判断することはナンセンスです。
表面的なものにのみ喜んできた経験
しかしながらご本人が数値等々として換算し「相手に返報性を与えている」と思っているということの奥には、ご本人がそうした表面的なものにのみ喜んできたという経験的なものが潜んでいるのでしょう。
ということなので、伝えようにもその人にはその手の感覚自体がないので、伝えるのは難しかったりしますし、下手に伝えると逆上されてしまうだけになります。
しかしながら、何度も何度も同じような形で世話をしては嫌がられて去られるということを経験しているのであれば、そろそろ何かしらで気づいても良いのではないか、と思ったりもします。
そんな時に「恩知らずの相手が悪い」という相手の責任のみを考えていたのではきっかけすら生まれません。
「同情を欲す弱音」と「前向きな相談」
そういえば別の知人になりますが、最近の部分的な不況感に対する嘆きということなのか、「見積もりを出してもそれっきりが多く、廃業するしかないかもしれない」というようなことをソーシャルネットワーク上で公開している人がいました。
しかし僕から言わせると、見積もりを出すチャンスはあるということですし、僕ならば「どうすればそこから成約に至るような道筋をつくることができるか」ということを楽しく考えてしまうでしょう。
ということなので、どうせ公開するならば、見積もりを出してもそれきりのことが多いという事実は現状の事実として捉えておいて、「どうすれば相手に興味を持ってもらえるでしょうか?」という相談をしている方が賢明だと思ってしまいます。
その人は社会環境が悪いということしか見ていませんが、ではどうしてうちの会社はおかげさまでちょっとした好景気なのでしょうか。
社長仲間の会社でも絶好調の会社はたくさんあります。それは自然な需要の高まりというわけではなく、環境を活かしたと言えば語弊がありそうですが、環境に適応し、新規の需要の掘り起こしをされていたりしているからこそといった感じです。
相手が悪い、環境が悪いというのは簡単ですが、だからといって誰かしらジャッジがいて、それで自分に実質的な軍配が上がるというわけではないのです。
友人や家族は同情し、同調してくれるかもしれません。
しかし、それで万事うまくいくということは聞いたことがありません。
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威張っていて腹心爪牙の家の子なし。
弱音を吐いても腹心爪牙の家の子なし。
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