気のせいのようでもあるし、事実のようでもある

気のせいのようでもあるし、事実のようでもある

それが本当の真実であるということを証明できないようなタイプの主観的な感想については、それが妄想であれ「何かの象徴」として表現されているものなので、よほどの暴論でない限りそれほど問題にはしていません。

「気のせいのようでもあるし、事実のようでもある」という感想を持つしか無いような、巷で言う心霊系のお話については、「見えたのだから見えたのでしょう」という同語反復的なレベルのお話として捉えるに越したことはありません。

自我領域の主観的事実が、完全にありのままを包括した世界とイコールであると考えることはできません。

見えたということは見えたのでしょうが、それが存在するということにはなりませんし、「見た」という感想自体は今あっても、見た事自体は過去になっているので今見ているわけではなく記憶ということになります。

日常で言えば、「夢を見た」というのは事実でしょうが、それが存在しないのと同じようなものです。

占い師や除霊師、霊能力者、祈祷師…

占い師や除霊師、霊能力者、祈祷師等々についても、メタファーや抽象表現を用いる心理カウンセラーのようなものであると捉えればそれほど問題にしなくてもいいのですが、やはり仮定や妄想の領域となるため、行き過ぎるとカルト化していく可能性があるので一応問題を含んでいたりもします。またそれを根拠に暴利を貪るようになったり、他者マインドコントロールを含め組織化して、カルト集団化する等々、煩悩の世界のままということにもなりかねません。

「何かしら悪霊のようなものが見えてしまった」という場合、それはその時点での何かしらの象徴であるという感じで捉えておいて、もう一つのイメージとして「聖霊のようなものが悪霊を倒した」という構造がもたらされたとしましょう。世間的には、それで心が晴れれば、基本的にはそれでいいという感じになります。

それは単に催眠などで「幼き自分を今の自分が助ける」というようなものとあまり変わりありません。

しかし、こうした心霊系にやたらとハマってしまったりする人がいます。ちょっとした遊びや趣味程度でやる分にはいいですが、本気にしてはいけません。

心霊系にハマってしまう人

心霊系にハマってしまう人には特徴があります。

それは、何かにつけて不快感を「他者のせいだ」ということにしたい心の癖があるという点です。

「自分には非がない中、自分が不幸を感じているのは、何か自分が把握できない力が働いているからだ」

という前提で過ごしているというだけだったりします。

まあ確かに世間的な標準というか、いわゆる常識的な感じで捉えれば「自分のどこに非があるのか?」という感じになっているのでしょう。

しかしここで言う世間とは、その人の世間なので、ここで言う「標準」とはその人の身の回りの平均値くらいの感じにちょっと背伸びを加え、さらに少しマスコミなどの情報を加えた程度の基準です。

そうなると確かに基準と照らし合わせて非はないような気にもなるでしょうが、自然法則を含め「理」はもっとシビアです。

自然法則を含めた「理」のシビアさ

「これくらいの持ち物を所有するのは普通」というのは「世間の普通」ですが、「所有の意識があるものが多いと、気になる対象が増えて煩いが増える」という理・法則は普遍的です。

で、「所有すると煩いが増えるよ」ということを見聞きしたとしても、「みんなそうしているんだからいいじゃないか、何が悪いんだ」ということで、話をスルーしてしまいます。

という構造を具に観察すれば、世間的な非はありませんが、法則に対する「自我判断による居直り」という構造が潜んでいます。

ということで、実は「心の煩いを増やす」という意味での「非」はあるにも関わらず、「自分には原因がない」とか「非はない」と考えていたりするわけです。

でも理は普遍性を持っているので、どこかしら煩いは起こります。

他の何かに原因があるはずだ

それで、何かしら不快感を感じていたりするので、それを解消したいと思いつつ、慢性的に不快感が続いており、解決策も見つかりません、という感じになったとき、「自分には原因がないのだから、他の何かに原因があるはずだ」ということになります。

しかし周りを見渡しても、どうもそれらしい原因は見つかりません。

ということで、「自分にも自分が確認できる身の回りにも原因がない」ということになれば、「何か得体の知れない力が働いていて、自分を苦しめている」というような考えに行き着きます。

そして、何かしらのオカルト話が紐付いて、妄想が加速していきます。

というのが、心霊系にハマってしまう人の意識の構造です。

特段、怪しい本や雑誌でなくても、少し歩けば神社などで摩訶不思議な事が書いてあり、その解説文には署名的に行政の名前も入っていたりします。

「あまりに不幸が続くのは、何かしら怨霊のせいかもしれない」というような妄想とぴったりハマる感じになります。

「原因に働きかけたぞ」という安心感

それで、「原因に働きかけたぞ」という安心感から少しばかりは気が晴れたりしてマシになったりもすることがあります。

「自分に非があるわけではないということを証明してもらえた」ということで安心したりもするわけです。

そしてその構造の中に居続けると「やっぱりこれが答えだ」ということになったりします。

浅いところで無限ループしている感じが、まさに「輪廻転生」という感じです。

というような構造も実は簡単なのですが、アイツこと自我の目線では、それを理解することができません。

なぜなら「疑いをかけられてはマズい」と思っているその張本人だからです。

「そんなことはない!」という執著

もしかすると、心霊系にハマっている人としては「そんなことはない!」とムキになってしまうかもしれません。

「そんなことはない!」

というのはなぜでしょうか?

「自分に非があるわけがない」

ということを思っているからです。

でもそれは思っているのではなく、世間から得た情報と生存本能からの衝動です。なので、本質的には自分に非があるわけではありません。

では、あえての問いになりますが、

「そんなことはない!」という執著は、悪霊の仕業かもしれない、とは思えないでしょうか?

執著により嫌な気分になった、怒りが生じた、ということは、良い状態ではないはずです。

ということは悪い状態を生み出すものの代名詞のような悪霊が、そうした思考をさせ、そうしたムキになる感じを生み出している、とは考えられないでしょうか?

というループも可能です。

原因はどこにあるのでしょうか?

うふふ♡

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