「その気になればルールを超えることができる」
僕がそれを実感したのが就職活動でした。
相手に文句だけを言っても変えることはできません。
身内の人などであれば、それに応じてくれる人もいるかもしれませんが、若造一人が何の接点もない企業相手にいくら真っ当そうな自説を説いたとしても通用しない、それを突きつけられるのが主に就職活動です。
相手には求める条件があって、その条件を満たそうと思っても各々環境が違うので、条件を満たせるかどうかのハードルは平等ではありません。
平等であるべきですが、それは国家や社会の理想、目指すべき到達点というだけであって、実際の経済活動においては、そんな事を言っていられません。それに付き合ってコストを掛け、リスクを負いすぎて倒れるわけにはいかないからです。
でもそんな条件は、就職活動における人事戦略的な部分であったり、コスト的な合理性ゆえにふんわり定められたようなものです。
採用は、する側とされる側に分かれますが、する側の企業側の都合もあります。もちろんされる側の求職者にも都合があるので内定辞退をすることも可能なわけです。
ただ、採用基準に関して「不平等だ」と文句をいうだけで、それを変えてくれるということはありませんが、その気になればそのルールを超えることはできます。
ちょっとした無理を通したエントリー
このシーズンになると自分の就職活動時代を思い出したりします。「有名企業に入ってから辞めて起業することはできても、その逆は難しい」というような妙に説得力のある言葉を真に受けて、「じゃあやってみようかなぁ」と何の準備もなしに始めた就職活動でした。
ネット上のエントリーの時代に突入していたため、就職活動サイトを見ていると、ふと面白そうな金融機関を見つけました。
早速エントリーしようと思うと、エントリーできません。
「おかしいなぁ、サイトのエラーかなぁ」
と思い、いろいろと試してみましたが、どうもうまくいきません。
「まあネットのエントリーというのもひとつの経路くらいなもんだろうから、人事部に電話してみよう」
などと思い、公式サイトの方から代表電話にかけて、人事部の番号を聞いて、電話してみることにしました。
すると
「地方金融機関ですので、自宅からの勤務ができるエリアの方にしかエントリーボタンが表示されないように設定いただいておりまして…」
というような回答が来ました。
「実家がエリア外の人は、エントリーできないということになるんですか?」
と聞いてみました。
「独身寮なども所有しておらず、交通費や住居手当などのコスト面から、そのような方針を取っております」
と、回答が来ました。
まあもちろん、相手としては、採用後の交通費や手当関連のコストなども考慮に入れて、地元の人しか採用しないという方針を取っているということだったので、
「では、そっちに住みますし、手当をよこせなんていいませんから、採用試験を受けさせてください」
と言ってみました。
するとしばらく保留になり、人事部長が電話口に出ました。
「面白い方ですね。それでは、説明会にいらしてください。通常エントリーとは別にエントリーを受け付ける形で対応させていただきます。説明会でお会いしましょう」
という流れになりました。
結局二次面接で不採用となりましたが、チャンスをくれた人事部に感謝をしています。
もしかすると理由は興味本位程度だったのかもしれませんが、イレギュラー対応をしてくれて、採用に関するコストを掛けてくれたのですから、ありがたいなぁと思いました。
その後、ストレスフルではありましたが、その次に受けた大企業に難なく採用されることになります。もうそれ以上のところはあまりないという感じだったので、そこで終了です。
そういうわけで、僕は実際の面接等に関して言えば、二社しか受けておらず、一瞬で終わってしまったという感じでした。
ただやはり人生で一番慢性的な緊張状態が続いた時期でもありました。頭が回転し続け、食欲もなくなり、体重が1週間で6キロも落ちてしまったほどです。
でも、ちょっとしたことですが、相手の基準を飛び越えたという感じのことが経験できたので、いい思い出だなぁと思っています。
なぜ相手の基準を無視して「採用試験を受けさせてください」と言ったのか?
なぜ相手の基準を無視して「採用試験を受けさせてください」と言ったのか、という部分が本題になりますが、友人・知人たちからの影響という部分が大きな要因となっています。
大企業では単に学校の卒業見込みだけでなく「卒業時22歳の方」というような足切りをしている企業もあります。
まあ、一度でもつまずいたような人は受けてくれるなと言うことにもなりますが、それはそれでその企業の風土ということになるので、今後その企業やその系列企業を何かで判断するときも「そういう発想の企業だな」というニオイをかぐことができます。
それはトラブルへの対処のあり方などの方向性も決めるため、ニュース等の要因で変動する株価の動きを予測することにも少し使えたりするようになります。
「不平等だ!」というのもいいですが、どうせその部分を言ったところで、相手はその思想を変えて特別扱いしてくれることは、ほとんど絶望的です。
「相手がそうであるなら、自分はどうするか?」というところだけを考えるしかありません。
よほどその企業に行きたければ、どうやってその縛りを突破するかを考えればいいですし、「そうした基準で評価するような企業の空間には入らない、比較的平等に扱う企業の方を選択する」というのでも構いません。
「相手に文句を言っても、相手は変わらない」という中、「自分はどうするのか?」というところだけが問題です。
それは書籍などでも同じです。
本に文句を言っても仕方がありません。
その中で自分が得れるものは得て、変だなぁと思うところはどう反証するのかということを自分の中でだけ行って、自分の向上にだけ利用すればいいというだけです。
それ以上を求めても、結局何も得ることはできませんし、苦しみが増すだけです。
と脱線気味になりましたが、「なぜ、相手の基準を飛び越えようとしたのか?」というところについて進めていきます。その行為の動機の要因としての「友人・知人たちからの影響」という部分についてです。
「ひたすら電話帳から電話」の中国人留学生
一つは、友人から聞いた話ですが、友人のバイト先にやってきた中国人留学生にまつわる逸話です。
そのお店はアルバイト募集など出していない時期だったのに、その中国人留学生が入ってきたので、友人は「変だなぁ」と思い、その留学生に「どういう経緯で入ってきたの?」と聞いたそうです。
すると、
「電話帳に載っていました」
と答えてきたそうです。
その人の地元というか自国ではどういう事になっているのかは知りませんが、普通は求人雑誌などを見てそこからという感じになるというイメージがあります。
しかし、求人雑誌に載っている企業はどこも断られたそうで(当時は求人フリーペーパー全盛期だったので、おそらくたくさんの応募があったのでしょう)、エリアと業種から絞って電話帳に載っている番号に「中国人留学生ですが、アルバイトは募集していませんか?」片っ端から電話をかけていったところ、そのお店が採用してくれたということでした。
「無理をして日本にやってきています。僕はお金を稼がなくてはなりません」
と言って、気持ちが折れることもなく淡々と電話帳から電話し続けたそうです。
間接的にそれを聞いた当時20歳そこそこで病中だった僕は
「現状の自分がこんな人と経済社会の中で競争しても勝てるわけがない」
と思ってしまいました。
「じゃあどうやったら採用してくれるんですか?」で人事部を動かした知人
またもう一人は、ある知人ですが、最終学歴中学校卒業で、卒業後、土木関係の仕事をしていた中、ある時某大企業の創業者の本を読んで感動し「オレ、ここに行きたい」と思ったそうです。
当時21歳位で、新卒採用の意味もよくわからないまま、企業の新卒採用募集に応募したそうです。
応募は無視され、音沙汰なしという感じだったようでした。
適性試験などの日程も近づいていたので、
「応募したんですけど、どうなってますか?」
と人事部に電話したそうです。
「来春4年制大学を卒業する見込みの方を対象としたものですので…」
と想像にたやすい返答が来たそうです。
で、そこで彼は折れること無く、
「創業者の人の本に感動したんで、〇〇(企業名)で働きたいんですよ。じゃあどうやったら採用してくれるんですか?」
と食い下がったそうです。
「子会社もありますし、子会社で中途採用もやっていますからそちらの方であれば…」
との返答が来たようですが、
「オレは、創業者の人の本に感動したんで、〇〇(企業名)で働きたいんですよ。〇〇(企業名)で働くにはどうしたらいいんですか?」
「弊社、新卒採用は四年制大学卒業者を対象としておりますので…中途採用もしておりますので、そちらの方に…」
「今から大学行ってたら、何年も先になるじゃないですか!創業者の〇〇さんも大学出てないじゃないですか!オレ将来〇〇さん(創業者)のあとを継いで、〇〇(企業名)の社長になりたいんですけど、どうしたらいいですか?」
「そうおっしゃられましても…」
「じゃあ中途採用ならいいんですね?いつやってるんですか?」
「部署に欠員が出た時などになりますので…
ただ、職種ごとになりますので…」
と、一方的に電話が切られてもおかしくないレベルの会話が長々と続いたようで、応対をしている人事担当者を見かねた人事部長が電話口に登場したようでした。
一通り先ほどと同じような内容を伝えたあと、人事部長さんは次のようなことを言ってきたそうです。
「どの企業でもよいので営業職に就いて半年程度で実績を作ってください。
半年経ったら中途採用として面接を行いますので、面接に来てください。営業手当でその能力がわかりますから、その時、給与明細と通帳のコピーを持って来てください。
年齢が年齢だから、もし採用になった時は新卒採用枠で扱うことも検討します。
最終的な判断は経営陣が行うため私達が配慮できるのは、ここまでです」
そしてその人は、結局その次の春から大企業に行くことになりました。新卒採用扱いということは叶いませんでしたが、営業職として中途採用で入社したという感じです。
まあ超がつくほどの特殊ケースになるでしょうが、本当にすごい人だと思います。
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就職活動前にそんなことを見聞きしていたので、「エントリーすらできない」という局面において、相手の基準を無視して「採用試験を受けさせてください」という言葉が自然と出てきたという感じでした。彼に比べれば小さい話です。
意外とマニュアル通りではない採用試験
まあ僕が採用する側でもそんな人達なら、採用したいと思ってしまいます。もちろんその感覚は人や企業によってそれぞれなので、もちろん何がどうあっても拒絶する人もいるでしょうが、僕としては、すごく活躍してくれそうな気がしてしまいます。
ルールを超えてくるということは、ある意味言うことを聞かないということなので、それが問題になることもありますが、「じゃあどうやったら採用してくれるんですか?」で人事部を動かした知人なんかは、「不平等だ」などと言って駄々をこねたわけではなく、「どうやったらいいですか?」とスッポン営業のような感じのことをしていたわけです。
もちろん相手が応じてくれないこともあります。
でも、その特殊ケースにおいては、彼の熱意に根負けしたという感じになるでしょう。
そして無条件に「そんな基準はおかしい、採用しろ」ゴリ押しするというわけではなく、相手が特別に出してくれた条件をクリアするということもしたわけです。極めて短期間の一時的な感情や演技ではないということすら示しているわけですからね。
「じゃあ僕はどうすればよかったんですか?」
と
「じゃあ僕はどうすればいいですか?」
は、似て非なるものですからね。
圧迫面接での出来事
そういえば、社長仲間の一人が、独立前の自身の就職活動時代の思い出を語ってくれたことがあります。
某業界最大手の企業だったようですが、最終面接が、いわゆる圧迫面接だったようです。
圧迫面接と言うと、いわばチクチクと嫌味ったらしく言い返せないようなことを突いてくるような面接です。採用担当者がわざと威圧的で横柄な態度を取ったり、質問に対する返答や意見をあえて全て否定するようなやつです。
まあこの圧迫面接の奥には、ストレス耐性であったりとか、論理での切り返しであったりとかそうした部分をテストするという目的があります。もちろん相手を傷つける意図はありません。
もちろんそうしたテスト的な意図をもってなされている場合が基本となりますが、単に本当に威圧的で横柄な場合もありますし、単に採用担当者が疲れてきていて苛立っているだけという場合もあります。
ただ、その人の場合は、最終面接で圧迫面接だったということで、向こう側に座っているのは、大半がその企業の役員たちです。大企業の役員であり百戦錬磨の人たちであるため、おそらく意図的な圧迫面接を演じていたという感じであると推測できます。
で、僕の社長仲間(当時大学生)は、圧迫面接に耐えかね、椅子を蹴飛ばして帰ったそうです。
「そう思いたいんならそう思っとけ!そう評価したいんなら勝手にそう評価しとけ!」
と、暴言とも取れるような言葉を吐きながら、椅子を蹴飛ばし、ドアを「ドーン」と鳴らして帰ったそうです。
で、当然に不採用だろうと思ったら、採用通知が届いたそうで、その企業に就職することになりました。
一瞬、圧迫面接の思い出が蘇ってきて、内定辞退を考えたそうですが、「なぜ自分が採用されたのかを知りたい」という思いの方が強くなってきて、結局その会社に行くことにしたそうです。
内定式の後に、当の圧迫面接を行った役員のところに行ってみたそうです。
すると「それくらいでないと時代を切り開けないよ」と言われたそうです。で、「入社後は、大人の喧嘩の仕方を覚えなさい」と言われたそうです。
ルールやマナーは、時に超えることができる
いろいろとルールやマナーのようなものはありますが、本人にそれを超えるものがあれば、時にそれらを超えることもできます。
しかしそれは一元化して考えることはできません。
「社会」は、こちらとあちらの関係の領域です。なので、相手にも相手の都合がありますから、一方的に「これで十分だろ!」と押し切ることはできません。いくら頑張ったりしてもダメなものはダメという場合もあります。二者以上の関係性の領域だからです。
でもそれを「円滑にしよう」という目的で設定されたルールやマナーの領域であれば、その領域から脱することもできます。
採用活動における基準など、コストとの天秤の要素が強く、「できる人かどうか?」という部分について、「実績として示しにくい人たち」を「どうやって評価するか?」という範囲のことなので、脱しやすいはずです。
データ的合理性云々言ったところで、結局何かしらの「期待」で決めることになるので、「期待」という意味で言えば、既に確定している客観的データなどとは別の部分で期待してもらえれば通ることもあるという感じです。まあもちろん、そんな「求める部分」や「期待」も相手の基準なので一元化することはできません。
そうなると、アランが言う「あなたは考えてなどいない、悩んでいるだけだ」という言葉が浮かび、
それにひき続き、ドラえもんの「悩んでる?いや悩んでなんかいないね、たんに甘ったれてるだけだ。いっぺんでいいから本気で悩んでみろ!自分というものをしっかりみつめろ」という言葉が響きます。
他者依存のすがり根性
こうした領域は、完全に一致するわけではないものの「数多のビジネス書が結局精神論ばかりになる理由」で少し触れていた、「起業がしたい人たち」のもつ「すがり根性」が根本的に起業家に向いていないというものと同じです。
現状の客観的データから相手に「拾ってください」とすがるのは依存です。もちろんそれでクリアできることもありますが、自分自身が抱える「これから何をしていくべきか」という判断や責任を他人に投げているという部分があります。
就職活動においては、受け皿が広いので、客観的データだけで何とかなる場合もあります。客観的データから「ここなら基準がクリアできる」ということをしていたとしても、それが叶う場合もあります。
が、そうした客観的データとして出身校であったり、成績であったり、その他サークル活動であったりという部分が相対的に弱い場合、その時点で諦めてしまうことがあります。
でも「ここなら基準がクリアできる」という発想自体が、やはり他者依存であり「すがり根性」的な感じになっています。
受け皿が広い領域であれば、それでも誰かは拾ってくれるかもしれません。しかし、事業の創業においては「誰かが拾ってくれる」という領域ではないため、その方法論は基本的に通用しません。
「論理を振りかざしていれば、それが正論のようなものであれば、いずれ誰かが動いてくれる」という発想です。
環境等の不平等がある中、それでも「何をどう叫んでも現状が動くことはない」ということを受け入れて、自ら動いた人だけが得れる境地です。
それはどんな領域でも同じであると思っています。
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就職活動においても、「SPIなんて意味があるんですか?意味がないと思うのでパスしていいですか?」とか「三回も面接する意味がないと思うので、一回でいいですか?」といったところで、相手はそんなことに応じてくれません。
そういうわけなので基本的には
「自説を振りかざしても無駄」
ということを受け入れて、何かしらの行動を起こす必要があります。
自らは責任を負う気のないような、駄々をこねるような正論はおそらく通じませんが、自分にその気があるのならば、時に相手が作った基準を超えることもできます。
例えば、親に結婚を反対されていようが、二人だけで自立する覚悟があるのならば、誰に反対されようが何とでもなるのと同じです。
いざという時に親に助けてもらおうという気があるから、親の意見を採用してしまうのと同じです。
社会の構成員たるもの、いくらかは意図せず制限されてしまう部分はありながらも、社会的自由は「責任と自立の覚悟」の上に成り立っているという感じです。
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採用前、採用後問わず、企業の基準が嫌なら自分で事業でも興せばいいのです。最低限の基準は法律が守ってくれますし、それ以上のことを求めるのはお門違いです。
ほとんどの企業は、それ以上のことをしてくれている場合がほとんどです。採用基準や配属先等々、文句など言われる筋合いはありません。法律の範囲を超えているのならば別ですが、他人が作った空間に入るのに、自分の都合を押し付けても動かすことはできません。法律を逸脱しているのであれば、法律に解決してもらえばいいというだけです。
企業の基準が嫌なら自分で事業でも興せばいいのに、それもせずに企業に文句を言うとすれば、それもまさに「他者依存のすがり根性」です。「あなたの勤める会社はこの会社です」と強制的に固定されているわけでもないですしね。
ちょっとした覚悟と自信
「駄々をこねても、泣いても叫んでも動かせないのであれば、自分はどうするのか?」
ということで、自分にその気があれば、その「正攻法では動かせないであろう何か」をどうやって突破するのかが見えてきます。
相手の都合もあるので、動かない場合もあります。
でも、それも含めて「自分はどうするのか?」ということだけが重要です。
それは「傍から見ると無様なこと」をすることになるかもしれません。
「それでもいい」という気持ち、その覚悟さえあれば、もしかすると突破できるかもしれません。もちろんできないかもしれません。
でもそこでもし突破ができたのなら、誰に誇るまでもなく自分の財産になります。誰かの評価なんて介さずとも、自分を誇りに思うことができます。おそらく突破できなくてもそこで得たフィードバックは貴重な財産となり、誇りにつながっていくでしょう。
そうして積み重なっていったものが、自信になるのだと思っています。
そうしたものは、「誰かが与えてくれるもの」ではありません。
与えられたものではないため、「流動性なきもの」として、奪われることもないのです。
でもいかに自分が為したことであれ、それには動機の発生を含めて様々な原因があり、また環境もあります。
それに気づけば、自ずと周りの全てに感謝することもできます。
僕自身の話ではないですが、フリーターから転職活動に勤しみ、最終的に上場企業に転職した30代フリーターのステップアップ成功事例について。
最終更新日:
いつもありがとうございます。
企業の採用担当をしたことがあります。
履歴書や課題としてお願いをしていた小論文の採点をしていたのですが、「方に嵌まった学生」が多かった記憶があります。
型破りな学生はほとんどいなかったです。
ネットで調べた知識や、大学の就職課の先生から教えて頂いた「虎の巻」があるのかと…。
コメントどうもありがとうございます。
マニュアルがあったとして、その内容を知ることができる人が限定的であるのならば、その方法論は通用するかもしれません。
しかし、マニュアルがあって、他の人も汎くそのマニュアルを知ることができるのであれば、相対的な篩いにかけられるにあたっての優位性は生まれません。
情報化社会となり、情報への到達速度が早まった現代において、今後はそのことを見抜く能力が必要になりそうですね。