なんだかんだで教育関係者も身の回りにちらほらいて、教育というか学習について相談を受けることがあります。
実はいわゆる勉強というものがそれほど難しいものではないのですが、出だしがフラフラしているからこそ難しく見えてしまうという事がよく起こっています。
学力というものをつけていくにあたって、その「学力」とは何かというところをつかんでいかないと、おそらくフラフラした細切れの寄せ集めになってしまうでしょう。
「学力」と「答えが決まっているような問題」と「演繹」
では学力とは何なのか、それは単に何かの対象について全体的な印象を把握していくにあたって、パーツと理屈を理解して紐解いていける能力です。
と言ってもわかりにくいので噛み砕くと、何か新しいことを知っていこうとした時に、単語の意味と理屈を理解して全体像を知っていくという感じです。
でないと、何となく雰囲気を掴んだだけで終わってしまいます。
そして普段ありふれているような「テスト」などは所詮人が考えたようなことです。だから絶対に答えが導き出せるはずです。
導き出せないとすれば、何かの構成要素を覚えていないか、どこかで定義がぼんやりしているか、理屈がわかっていないか、というところが問題となります。
答えが決まっているような問題はだいたい演繹(えんえき)で導き出されます。ということで演繹法について触れていきます。
テストにおける演繹
演繹が何なのか全くわからないという人向けに簡単に書くと、
A「生き物は必ず死ぬ」
B「人間は生き物である」
C「よって人間は必ず死ぬ」
というやり方です。
で、テストの場合は、そうしたところを歯抜けにしたりして、その場所を覚えているなら演繹が可能になり、そうして答えを出せという感じになっています。
答えが決まっているような形でのテストはこれがほとんどです。
途中の推論が止まるとその後に進むことができない
で、この演繹は、途中の推論が止まるとその後に進むことができないという感じになっています。
また途中で間違えると、最後も間違えてしまうということになっています。
英語でよくありがちなのが、文章を頭から訳していって、途中でわからない単語があると、そこで思考がストップしてしまうというようなものです。
骨格を把握するための要約
ただ、文系の学習では、ほとんどの場合まず骨格を押さえていけばあとはただの飾りであるということに気付いていけるはずです。
本当は学習など全て簡単なことです。
しかしそれを難しくしているのは、骨格を把握するということを訓練しないことと、各要素の定義が曖昧になっているというところに尽きるでしょう。
こうしたことはなぜか学校では教わりません。
稀に運良く良い先生に当たればどこかで習うかもしれませんが、当の先生すら分かっていない場合が99%と思っておいたほうが無難でしょう。
有名で高額な予備校などでは結構な確率で教わるそうですが、義務教育や高校でも教わることができるとは考えないほうが無難かもしれません。
夏目漱石氏は弟子に要約ばかりやらせたそうです。また欧米圏では比較的若いときから要約の教育が数多くあるそうです。
日本語と論理力
未だに日本語が論理的な言語ではないという人がいますが、言語である以上論理的でないはずがありません。問題は、言語の組み立てが論理的ではないという点をすり替えて「日本語は論理的ではない」と逃げているにすぎません。
それはどちらかというと、日本人の気質や日常会話の文化・風土を言語体系とごっちゃにしているだけだったりします。
主語を抜いて文学的国語表現としての野暮ったさを省く
日本語が論理的ではないとする背景は、「主語を抜いても大丈夫だ」という構造を持っているからです。
端的には「私は」という部分を抜いてもマルをくれるからという感じです。それは文学的国語表現としての野暮ったさを省くという場面でよく用いられるため、そうした文化の影響で論理的ではないという印象があるだけです。
ただ、「私は」をつけてもつけなくても文章は成り立ちます。そうした時に論理性を持ちたければ「私は」が必要になるということを知っているか知っていないか、気づけるか気づけないかというところが重要になってくるでしょう。
要約で骨格以外を削ぎ落とす
要約をすることの最大のメリットは、骨格以外を削ぎ落とすことで、骨格を正確に捉える能力を養うことができるという点です。
ただ、一方で要約しすぎると、本質からズレた定義になってしまうことがあります。
本質を掴めていない人が下手に要約すると、本質からズレた短文ができあがります。ちなみに某経済新聞の用語解説欄ですらそんな有様です(結論が変)。
どのような文でも骨格があります。
まずはそれを押さえてしまえば、文章全体の論旨がつかめてくるはずです。特に大学の授業など、ほとんどそんな感じだと思っておいたほうがいいでしょう。
定義を曖昧にするな
定義を曖昧にしたまま学習を進めても、混乱が進むだけだったりします。
学習にはカリキュラムというものがあり、段階的に次のセクションに進行していかねばならないというのは教師側の都合ですが、前提条件の定義が曖昧になったまま話を進めても、その学力が向上するどころか混乱してくだけだったりします。
僕は英語が得意ではありませんが、あえて英語を例に出すと、SVOというようなものがあったとして、それぞれS、V、Oの意味を完全にわかっていないと、教科書に色々書いてあったとしても雰囲気しか習得していくことができないのです。
「不定詞って何ですか?」
と聞かれて辞書並みの定義を答えられないと、次に進んではいけないのです。
なぜなら、テストを筆頭とした学校、受験レベルの学習の分野は演繹で問いに答える構造になっているからです。
演繹で問いに答える構造
演繹の特徴は、その演算の途中で自分が知らないこと、知っていても曖昧になっていることが出てくると、その先に進むことができません。無理やり進めても、博打的になってしまいます。
ひとつの解決法としては、骨格から先に捉えてしまうことです。
英語を頭から訳すと途中でわからない単語が出てきて頭が止まってしまいますが、ひとつの文を全体として捉えてSVOなら骨となるSVOはどれかというようなものを先に捉えてしまうことです。そうすれば、10点/10点は無理でも、少しは点を稼げるかもしれません。
文は読めても意味がわからない
さてここでいきなりですが、「PBRを指標としたファンダメンタルズ戦略を取る時、PBRが2倍を割れている割安のものの中からROEの高いものを選ぶ」
という文があったとして、意味がわかったでしょうか?
もちろん分かる人もいるでしょう。しかし、ほとんどの人は意味がわかりません。いちおう文の論理なども分かるでしょうが、意味はよくわからないはずです。
なぜなら、PBRとファンダメンタルズ戦略とROEの定義がわからないからです。そしてPBRの倍率の概念もよくわからないからです。
ということは、それぞれの定義がつかめないと、先の文を読むことはできても意味がわからないのです。
それと同じことを学習でやっているのです。
確かに何となく学習は進んだ雰囲気を持っていますが、特にわかったわけではない、そんな感じで勉強すると時間に対してのパフォーマンスが圧倒的に低くなってしまいます。
わかり切るまで手元に置いておく
ということで、効率的に学習しようと思うと、わかったつもりにならずに、定義がわかり切るまで、主要な用語の定義を手元に置いておくというのがベストです。
SVOや不定詞の意味をぼんやりわかったつもりになったまま、新しい文法や用法が出てきた時に教科書を苦しみながら読むよりも、それぞれの定義を下敷きにでも書いて主要用語の意味を確認しながら解説文を読むことです。
そしてわからない単語が出てきたら調べることです。そして重要そうなら下敷きに追記しておくのです。
テストも演繹ですが、人が考えたことを学んでいくときもだいたい演繹です。
そして演繹は途中で定義が欠落すると前に進めないという特性を持っています。
じゃあそんな妨害を取り除く工夫をすればいいだけ。
わからないことをわからないと認めることで、人は成長していくことができます。
その前提に立てば、様々な工夫も浮かんでくるでしょう。
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といっても、演繹は論理としての完全性を持つことはありません。「人が決めたこと」については使えますが、それが通用しない領域も追々出てきます。
そして演繹は、逐次的(ちくじてき)、つまり、単一の論理を「線路を進むように」しか思考できないという特性を持っています。
4本の手足を使ってドラムを叩くことができるはずですが、演繹はドラムを叩くのに片手しか使えないというような感じです。指一本でピアノを弾くような感じです。
演繹を極め、演繹を超えることができれば、4本の手足を使ってドラムを叩くことも、10本の指を使ってピアノを弾くこともできるようになります。
ただ、大学受験くらいまでのレベルの学習であれば、そこまでの開花は必要ではありません。
文の骨格を掴むことと定義を曖昧にしないということを訓練してくだけで十分です。
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