大きな沈黙の中で

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインです。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わることで有名です。

論じえぬことに対してあれこれ論じて盛り上がるのは雑談程度で十分のはずなのですが、世の中では論じ得ないこと、論じても仕方ないことがたくさん論じられています。それに必要以上に価値を付けるのでより一層おかしくなっていきます。

どうコメントしていいのかわからない局面

生きていれば、どうコメントしていいのかわからない局面がたまに起こります。

たとえばその局面が、親友と一緒であればやり過ごせるものの、初めてのデートで初めて遊んだ仲だった場合、そういう局面を一緒に味わうと、互いの性格・気質は関係なく、「もうこの人と遊ぶことはないかも知れない」と思ってしまいます。

世の中にはどういうリアクションを取ればわからないものの、ひとまず笑ってやり過ごさなければならないような時があります。

http://youtu.be/G4jT4lXgkX8

非常にどうしていいかわかりません。どういうコメントをするかどころか、どうやり過ごせばいいのかわかりません。目のやり場にも困ります。周りの人達の反応も気になります。こちらが何かをやったわけではないのに、穴を掘ってでも入りたくなるでしょう。

変に定義付けがあると

たとえば、コンパやパーティーのような「楽しむべき」場でそのようなことが起こってしまえば、非常に苦しくなります。すべることは許されません。

この場は「○○の会」という変な定義付けがあると、ハードルが一気に上がります。変な緊張感があります。

それは舞台の上に立った芸人が、日常なら面白いとされるようなことを、同じようにその場で行ってもすべってしまうのと同様です。その際に空気をあたためるというのは、その緊張感やハードルを下げるというようなことです。

変な緊張感

コンパという前提があれば、「男女を意識しなければならない」という変な緊張感があります。その緊張感で実力を全然発揮できないタイプの人もいるでしょう。下手に話せば「下心から話している」とでも思われるかもしれないと思ってしまうからです。

学校ではモテていた人が、全然ダメになるのは、このような緊張感から大きな沈黙を招いてしまうからです。ただ、そんなことを気にしているようではいけません。

社長同士の交流会でも、場慣れしていない人は一発でわかります。話さなくてもわかります。姿勢が少し変ですから。

上手く話そうとすると、うまく話せない

上手く話そうとすると、うまく話せない、ということで、「上手く話そうとするな」というアドバイス的なものをよく見聞きしますが、そんなことはなかなかできません。

結構年が離れていても、友達のお父さん、お母さん位に思うとまだうまく話すことができるでしょう。

特に自分から話しかけなくても大丈夫です。

「上手く話そうとするな」という言葉には、「自分から話さねばならない」というような事柄が見え隠れします。しかしながら、そんなことは気にせずに沈黙を守っていても十分です。

気の合わない人と知り合いになっても仕方ないのですから。

大きな沈黙の中で 曙光 423

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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