インターネットメディアが普及してからというもの、やたらと根拠・データを示せば相手は納得すると言うか、言い返せなくなるというような雰囲気が出てきたりしましたが、「そんなことを根拠にして説得すると不利ですよ」と言いたくなってしまうこともよくあります。
何度も触れていますが、とりわけ相関関係は絶対性を持ちませんし、傾向くらいしかわからないのです。傾向から仮説を立てるくらいにしか使えないというのが本当のところです。
誰かが「因果関係を知らなくても、相関関係を知ればそれで良い」などということを流行らせましたが、それはマーケティングの分野の話であって、自然科学等々全てに通じるような理屈ではありません。
「エビデンス」などという言葉を使い、それっぽいデータを出したら相手は納得するだろうというような風潮が蔓延していますが、よく見るとそんな相関を示すデータですら「31.8%に対して34.6%」等々、「誤差程度じゃないか」と言いたくなるようなものもたくさんあります。
「データにはデータで返さなくてはならない」というルールはない
分野にもよりますが、本来は「データにはデータで返さなくてはならない」というルールはありません。
「これ以上のデータやそれに基づく根拠はあるのか?」
という事自体が、偏った思考のあり方なのです。
社会において合意を得ようと思うと根拠が必要になるというのはわかりますが、全ては常に揺れ動いていますし、データなど参考程度でしかありません。
そしてデータというものは過去に基づくものであるため、二度と同一のことは生じないという性質がある他、過去の経験からの制限が生じるだけになることもあります。
根拠として相手がデータを出してきたら、こちらもそれと同等以上のデータを出さなければならない、というのは、時に相手に「領域」を勝手に設定されていることになります。
感覚の差だけの場合もある
そして、何かしらのデータを根拠にする場合も「誤差程度じゃないか」となる場合があります。その時、「それでも差はある」とするのか「無視しても良い程度の差だ」とするか、というその差の取り扱いは、単に感覚の差だけということになります。
ならば、根拠、根拠と言えど、所詮感覚の差なのです。
合意を求めて説得するにあたり、データを出すというのもひとつの方法ですが、とどのつまり「所詮、感覚」ということになったりもするわけです。
根拠グセが制限になる
さて、あまりに根拠グセがついてしまうと、個人的経験においては制限をもたらすばかりになってしまったりします。
本来デートに誘うのに根拠は必要ないはずですが、根拠を求めてたじろいでしまうということが起こりかねません。
そうでなくても、様々な道を選ぶ時「何となくワクワクする」ということだけを頼りにしても良いはずですが、自他共に根拠を求めてしまうということが起こるとそこで一旦ブレーキがかかってしまいます。
一応「そのリアルを知る」ということは良いですが、「~だから」という根拠を求めると、前に進む力がどんどん弱まってしまいます。
もちろん、胡散臭いマルチネットワーク等「ワクワク刺激」によって自発的意志かのように演出してくる人達もいるので、立ち止まってリアルを知るとか思考実験をしてみるというのは良いですが自分の納得や相手の説得のために「根拠を探す」ということは、基本的に制限をもたらすばかりになってしまいます。
凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない
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